北穂高岳で味わう至福のひと時

標高3000㍍の北アルプスに登っていたころの写真記録、国内外の旅行、反戦平和への思いなどを備忘録として載せています。

佐倉城址公園(千葉県佐倉市)の「12階段」・・・ここにいた部隊はレイテ島で全滅した

千葉県佐倉市にある佐倉城址公園(さくらじょうしこうえん)は、江戸時代に「佐倉城」があったところです。この公園の片隅に、奇妙な階段がポツンと残っています。

 

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ナニ、これ・・・・・と思われそうな建造物 (1998年11月 千葉県佐倉城址公園で撮影)

 

 

 

 

 

 地元で12階段と呼ばれている風変わりな階段です。戦争に関わりのある遺跡です。

 

 この佐倉城址公園は明治時代、軍隊の駐屯地になっていました。そしてアジア太平洋戦争(1931年~1945年)の時には、

陸軍歩兵第57連隊、通称・佐倉連隊が置かれていました。

 ほとんどが千葉県出身という部隊でした。

 

 

軍の処刑台?

 

 一見、変ちくりんな階段は、終戦後も長い間、説明する看板がなかったこともあって、用途が今ひとつ分かりませんでした。遊びに来た子供たちの間では「死刑台の跡かな」なんていううわさもあったとか。

 階段を、不気味な13段ではありませんが12段登りきると、その先は絶壁です。

 

 

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 実はこの階段、「跳下台(ちょうかだい)」という軍隊の設備でした。陸軍の正規の運動用具の1つで、全国どこの連隊にもあったという話です。

 多くは木造ですが、ここはコンクリート造りで頑丈です。

 

 高さは3メートルぐらい。この階段を下から登るのではなく、上の方から銃などを持ったまま、あるいは手ぶらで飛び降りる訓練をしていました。

 

 言い伝えでは、日清戦争(1894年)や日露戦争(1904年)の経験から、兵隊が恐怖心を克服したり、背嚢(はいのう)という重い荷物を背負って長時間歩ける体力をつけるために、こんな訓練施設を考え出したようです。

 

 

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  10年ほど前に「12階段」の横に「訓練用の12階段」というタイトルで案内板が立ちました。

 その案内板には、佐倉市が保存している当時の訓練の様子を撮った写真も載っています。(上の写真)

 

 

 案内板は子供たちにも分かるように、ルビ付きで「兵士が高所からの飛び下り訓練に使用したコンクリート製の階段。木製の飛び下り台と違い、壊すのが大変なため、戦後も残ったと考えられます。」と書かれています。

 

 

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フィリピンの島々 (Googleから拝借)

 

 

 


 実は、佐倉連隊の人は、ほとんどがフィリピンの

レイテ島」で戦死または病死しました。

 事実上の全滅です。

 

 

 大岡昇平「レイテ戦記」や千葉日報社編「レイテの雨――佐倉連隊の最期」、NHK「証言 NHK戦争証言アーカイブス」によりますと、事実関係の一端は大筋次のようです。

 

 

 千葉の陸軍歩兵第57連隊(佐倉連隊)は1944年11月、フィリピン中央部にある「レイテ島」に上陸。「リモン峠」で米軍と激しい戦闘になり、火炎放射器による攻撃を受けて部隊は壊滅的な打撃を受けた。

 翌1945年1月、大本営はレイテ島での「決戦」を放棄し、米軍がその時点では上陸していない、隣のセブ島」への「転進」を命令した。

 「転進」とは聞こえはよいが、現代風にはっきり言えば「退却」のこと。

 

 セブ島に移動するため用意できたのは、小型の上陸用舟艇(およそ75人乗り)が

4隻。結局、セブ島には、宮内連隊長以下174人が脱出できた

 

 しかし、船がその後、米軍機に撃沈されたためにセブ島に移動できなくなり、間宮大尉以下115人が、栄養失調や病気でレイテ島に置き去りにされた。食べるものも身を守るための弾薬もない状態でだ。

 大岡昇平「レイテ戦記」によると、戦後もレイテ島の山地から生きて出てくる人は

1人もいなかった。

 

 

 佐倉連隊の約2500人のうち、生きて帰ってきたのは、わずか118人でした。

 

 

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 いま公園には、桜や梅林、菖蒲園などがあって四季を通して家族連れの姿がみられます。

 でも、ここでトレーニングしていたお兄ちゃんたちは、ほとんどみんなその後、南の島で死んじゃった、という悲しい事実を知る人は、ほとんどいません。 

 

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 古い話ですが、この「12階段」の話は1998年12月1日付の新聞の地方版に

≪千葉の戦跡≫シリーズで採り上げました。反響のうち、私の胸に響いた1つを以下に載せておきます。千葉県鴨川市在住の女性からの支局へのFAXでした。

 

「父の兄が若くしてレイテ島で戦死しました。父は73歳ですが、元気なうちに一度訪れてみたいと言っています。次の予定があれば、旅費など教えてください」

 

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