館山海軍航空隊赤山地下壕(あかやまちかごう)を案内していただいたのは、
1998年10月10日でした。
当時、愛沢さんは千葉県立安房南高校の社会科(世界史)担当教諭。房総半島南部の戦争遺跡の調査研究に取り組み、文化財として保存する方向で動いていました。
愛沢さんからは赤山地下壕以外の戦跡も案内していただきました。今回はその紹介です。
目次
★掩体壕(えんたいごう)
館山海軍航空隊の掩体壕
赤山地下壕の裏手に建設された戦闘機の掩体壕(えんたいごう)
(1998年10月10日撮影)
「これ、何だと思う?」
上の写真を突然見せられて、こう聞かれても分かる人がいるだろうか。
「えんたいごう」と言われる建造物です。
アジア太平洋戦争の末期に、米軍による空襲から地上の戦闘機を守るための
コンクリート製の格納庫です。
赤山地下壕わきに残るこの掩体壕は、戦闘機を1機収容できる広さです。
掩体壕のつくり方は、
まず、完成後に空間となる部分に土をおわんの形に盛り、固めてからその上に「むしろ」や板を並べ、さらに金網を張ってコンクリートを流し込む。コンクリートが固まったあと、土砂を掘り出して完成です。
赤山地下壕の近くだけで10基あまりあったそうですが、残っているのはこの1基のみです。
長い年月の経過で土砂が流れ込み、元の床の位置から1メートルほど土が堆積しているそうです。
茂原(もばら)海軍航空隊の掩体壕
掩体壕をしっかり管理している自治体もあります。千葉県茂原市がその1つです。
茂原市にはかつて、茂原海軍航空隊がありました。
茂原市は戦争の記憶を残すため、1995年7月当時残っていた掩体壕10基のうち、1基の保存を決定。その土地を地主から借り上げるという形で管理することにしました。
この掩体壕の建設時期は1941年(昭和16年)。広さは、幅約23メートル、高さ約7メートル、奥行きy九14メートルで、ゼロ戦2機を核のできる大きさです。
★128高地 地下壕
東京湾を見下ろす小高い山の中腹に、128高地(いちにはちこうち)地下壕の入り口がありました。
標高が128メートルであるために、そう呼ばれるようです。
上の図をご覧ください。128高地は左下で、洲ノ崎海軍航空隊の敷地内にあることが推定できます。
「洲ノ空(すのくう)」と呼ばれたこの航空隊は、1943年に発足した全国唯一の兵器整備・開発のための“練習航空隊”。操縦以外の写真とか爆弾投下装置といった、航空機にかかわる専門的な技術を学ぶところでした。
戦闘機で機銃掃射する時に、プロペラの間を弾がうまく通り抜けるように兵器の開発や改良も行っていました。
戦闘指揮所
128高地地下壕に入って、しばらく暗闇の中を進むと、コンクリートの壁に石でできた額がはめ込まれており、「戦闘指揮所」と書かれていました。
目を凝らすと、「昭和十九年十二月竣工」「中島分隊」の文字。右端に「義治書」、左端に「忠信作」とと記されていました。
「洲ノ空」の中島分隊が建設した、と推定できます。
竣工の時期から見て、米軍の上陸後の本土決戦に備えて、抵抗の拠点にしようとしたとみられます。
作戦室
戦闘指揮所から少し進むと、今度は「作戦室」と書かれた額がありました。
同じく「中島分隊」などの表示もありました。
変な虫もたくさん壁をはっていて、反射的にカメラのシャッターを切りました。
「龍」の彫り物
「作戦室」をさらに奥に進むと、小部屋の天井に「龍」をモチーフにしたレリーフがありました。およそ3メートル四方の大きな彫り物です。
たまたま2020年7月29日付「東京新聞」(中日新聞社東京本社発行)朝刊に、128高地地下壕を紹介する記事が載り、「龍」の彫り物の写真がありましたが、だれが何のために彫ったのか分かりません。記録がありません。
山積みのセメントの袋
この地下壕の奥の行き止まりのところに、セメントの袋が数袋、積まれたままになっていました。水分をたっぷり含んで、固まっていました。
終戦を突如として迎え、穴掘りをやめたのでしょうか。
128高地地下壕は立入禁止
この128高地地下壕は、婦人保護長期入所施設「かにた婦人の村」の私有地にあるため、一般公開されていません。平和学習が目的の団体には敷地内への立ち入りを認め、愛沢さんらNPO法人安房文化遺産フォーラムが案内しています。
この施設が1965年に国有地の払い下げを受けて開設した時に、地下壕の中の何カ所かの穴はふさがれました。
★従軍慰安婦の慰霊塔
婦人保護長期入所施設「かにた婦人の村」の敷地の丘の上に、天を突きさすように建つ石碑があります。
「噫(ああ)従軍慰安婦」と刻まれた、高さ2メートルの鎮魂の碑です。
かにた婦人の村
売春防止法の成立(1956年)を受けて、保護が必要な女性を全国から受け入れた施設です。
「かにた」は近くを流れる小川の名前。1965年に国有地払下げで得たこの土地に、牧師さんが施設を開設しました。
「慰安婦だった」と告白
1984年、入所者の1人が「慰安婦」だったことを、この村の創設者の牧師に告白しました。
家の借金のために遊郭に身売りされ、さらに17歳の時に台湾の慰安所に売られ、南方の戦地を転々。戦後、帰国しても夜の世界で身を売る仕事しかなく、自宅に戻っても家族から見放され、この施設にたどり着いた女性でした。
牧師に、こんな手紙を書きました。「軍隊が行ったところ、どこにも慰安所ができ、・・・さんざんもてあそばれて足手まといになると放り出され、野犬かサルのえさになり、土にかえったのです。・・・かつての同僚の姿が浮かぶ・・・どうか慰霊碑を建ててください・・・」。
1985年8月、牧師さんは8000円ぐらいで買ったヒノキの柱に「鎮魂の碑」と墨で書き、建てました。これがマスコミに報じられて寄付金が集まり、翌1986年8月15日、石碑の除幕式が行われました。
日本人で唯一、自分が元「慰安婦」であった体験を話したこの女性は、晩年をこの施設で過ごしました。
★本土決戦の切り札
『本土決戦』という、勇ましく聞こえる言葉があります。
アジア太平洋戦争の末期、敗戦色が濃厚になった軍部は、米軍が日本本土に上陸してくるのは確実とみて想定した作戦計画のことをこう言います。
1944年(昭和19年)7月にサイパン島が陥落すると、大本営は本土防衛のためとして「本土沿岸築城実施要領」を作り、千葉県九十九里浜、神奈川県相模湾など米軍の上陸が予想される地点で、陣地の構築を始めました。
「かにた婦人の村」敷地内の地下壕の戦闘指揮所、作戦室の額は、本土決戦に向けた抵抗拠点であり、館山の水上特攻艇「震洋」基地や、旧三芳村のロケット特攻機「桜花」43乙型発射基地は、海軍にとって切り札だったようです。
水上特攻艇「震洋」基地跡
「特攻艇」というのは、モーターボートに250キロの爆弾を積んで搭乗員が操縦し、敵艦に体当たり攻撃を仕掛ける船です。1人乗りで船体はベニヤ板。
「特攻艇」の名前は「震洋(しんよう)」。終戦の1ヵ月前に館山市の波左間(はさま)地区に176人からなる「第59震洋隊」が配備されました。
海岸近くには「震洋」を保管する地下壕を掘り、海岸にはコンクリート製の「滑り台」(発進用スロープ)を建設しました。
しかし、出撃前に終戦となりました。
上の写真が「震洋」を発進させようとした「滑り台」です。
海に突き出たコンクリートの構造物です。 (1998年10月10日撮影)
終戦直後、軍上層部はこの計画の存在を歴史から消すために、「震洋」を海に沈めさせた、という証言があります。それを裏付ける格好で、震洋のものとみられる残骸が、基地から1㌔離れた房総半島沖の海底で2017年夏見つかり、NHKが撮影しています。
ロケット特攻機「桜花」発射基地跡
写真は、「桜花」四三乙型を発射させるため建設中だったコンクリート製の滑走路跡です。(1998年10月10日撮影)
コンクリートの土台だけ残っていましたが、ここに枕木を設置し、その上に滑走用のレールを2本設置すれば完成です。
県道から100メートルほど山の中に入った畑の中にこん跡がありました。
『桜花(おうか)』は1945年(昭和20年)3月に実戦投入された兵器です。自力で飛ぶことができないために、海軍の「一式陸上攻撃機」につるされ、敵艦隊に近づくと空中で切り離され、のちに空中でロケットエンジンを点火して、搭乗員が操縦しながら敵艦に体当たりするという発想でした。残酷な「人間爆弾」です。
ロケット特攻機「桜花」四三乙型は、その改良型で、地上発射型です。東京湾に近い千葉の山中に秘密基地をつくり、築城のカタパルト(射出機)式のコンクリート滑走路からの発射を考案しました。発射後は搭乗員が操作し、ジェットエンジンで目標に向かう仕組み。米艦船をとらえると、搭乗員は機首部分に装着した800キロの爆弾もろとも敵艦に突っ込むことを想定しました。
しかし、基地の完成間際に終戦となり、使われることはありませんでした。
鉄骨・・・。(1998年10月10日撮影)
県道をはさんで、桜花発射基地跡の反対側に「知恩院」という無人の寺があります。
本堂の軒下に鉄骨が何本か放置されています。
発射台のレールに使われる予定だったそうです。
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