目次
- 陸軍の飛行場だった調布飛行場
- 陸軍戦闘機「飛燕」が配備された
- 「B29」に東京上空で体当たりした!
- 「体当たり」を市民は見ていた
- 住民避難の「不発弾」は体当たりされたB29の持ち物だった
- 掩体壕も文化財
- 府中市は「掩体壕」を「史跡」に指定!
調布飛行場(東京都)の隣の「武蔵野の森公園」(三鷹市)に、かまぼこ型のコンクリートの塊が2つ、残っています。これは何でしょう?
米軍の爆撃機「Bー29」による空襲で、日本の戦闘機が破壊されるのを防ぐために造ったほら穴なんです。掩体壕(えんたいごう)と呼んでいます。
この近所で「古民家」をウリにしているイタリアレストラン『リストランテ大澤』(小金井市)は、私の友人が子どものころ暮らした実家なんだというんで、その友人に御馳走になった帰りに、掩体壕に立ち寄りました。8月25日です。
陸軍の飛行場だった調布飛行場
いまの調布飛行場
調布飛行場は、調布市にある都営の飛行場。小型のプロペラ機が飛んでいます。
三宅島をはじめ伊豆大島、神津島、新島といった伊豆諸島との間を行き来しているんですね。
この調布飛行場は、アジア太平洋戦争の開戦の年に誕生しました。1941年4月、羽田空港に次ぐ東京の空の玄関として完成したそうです。
ただ、直後の8月には東京府(当時)と帝国陸軍との協定で、陸軍が全面的に使うことになりました。
陸軍戦闘機「飛燕」が配備された
「飛燕」と航空兵(ウィキメディア・コモンズから引用)
調布飛行場には、1941年7月に編成された「飛行第144戦隊」が配置されました。その4ヶ月後には名称が「飛行第244戦隊」と変わり、首都圏の防衛任務にあたりました。
説明版に描かれている戦闘機「飛燕」
「飛行第244戦隊」には1943年7月、それまでの「九七式戦闘機」に代わって最新鋭の三式戦闘機「飛燕(ひえん)」が配備されました。
説明版(上の図:左が北)をみますと、当時の滑走路は2本。1本は現在とほぼ同じ位置で、南北方向に1000㍍、幅80㍍。ほかにもう1本、今の滑走路の南端にあったようで、規模は東西方向に700㍍、幅80㍍。
図の「現在地」と書かれた赤字部分に、掩体壕が2基、残っています。
掩体壕はいつ造ったの?
日本は1941年12月8日にアジア太平洋戦争を始めましたが、大本営(天皇直属の陸海軍を統帥する機関)は1944年6月末、「東京が空襲される時期は近い」と情勢判断します。
そして、首都圏の防衛任務にあたっていた「第10飛行師団」に対して、戦闘機の防空壕としての掩体壕と誘導路を急いでつくるように指示したのです。
公園内にある「飛燕」と「掩体壕」のブロンズ製模型
「本土決戦」に備えて戦闘機を温存しておく必要があったのですね。調布飛行場をはじめ、成増(東京都)、所沢(埼玉県)や柏(千葉県)、松戸(千葉県)の飛行場に丈夫な掩体壕を造りました。
「掩体壕」と滑走路は「誘導路」で結ばれていて、飛行機にロープを結び付けて、人の力で移動させました。
調布飛行場では、1944年6月から9月末までの短期間に、戦闘機1機を収容する屋根付きで半地下式の鉄筋コンクリート製の掩体壕約25基と、土塁でコの字に囲った上に竹をかぶせるだけの掩体壕30数基が造られました。
武蔵野の森公園サービスセンターのパンフ
公園に保存されている掩体壕は、高さが最大3.73㍍、入口の幅は12.34㍍、奥行き12㍍で、戦闘機「飛燕」を隠すのにふさわしい規模でした。
「B29」に東京上空で体当たりした!
戦争末期の1944年11月1日、1機の米軍爆撃機「Bー29」が偵察のため東京上空に飛来しました。以降、写真撮影のため繰り返し飛んできました。
「飛燕」が迎撃に向かうんですが機体が重く、高度1万メートル(10㌔)以上で飛来するBー29まで上昇できません。
11月7日、「第10飛行師団」の師団長は、印旛、成増、所沢、柏、調布の各飛行戦隊に対して、「敵機に体当たり攻撃をする特別攻撃隊」をそれぞれ4基ずつで編成するよう命じました。
そして、体当たりする機は、高く飛べるように防弾鋼板や燃料タンクの防弾ゴムを外したり、翼内砲2門も外し、搭載する弾数も減らしました。
Bー29の大編隊に向かって、少数でそんなことして、いったいどんな意味があるの?なんて、私なんか思いますが、軍国主義教育とか戦争というものは人間を狂わせるんですね。
「体当たり機」は滑走路横の掩体壕に配置した
特攻用の戦闘機「飛燕」の掩体壕は、滑走路のすぐ横に配置され、天井部分はコンクリートではなくて竹を編んでおおい、さらに網で目隠しをしました。
その掩体壕の一角には簡易テントを張った待機所が設けられ、「Bー29接近中」という情報が入ると搭乗員はテントに駆け込み、作戦室から流れて来る「××隊、あおぞら(=出撃せよ)」の放送を待ったそうです。
「体当たり」を市民は見ていた
『つばさに託して』から引用
1945年1月9日、「Bー29」が30機、東京に飛来しました。その時、国分寺市の市民が目撃した戦闘の様子が『国分寺市の戦争記録』(国分寺市教育委員会著)で紹介されています。
「昭和20年1月9日午後3時ごろ、国分寺市北部を飛行中のBー29に対して、調布飛行場の飛行第244戦隊の飛燕が体当たり攻撃を行い、撃墜しました。」
「飛燕のパイロットである高山少尉は生還しましたが、Bー29の乗員は全員死亡し、Bー29の残骸と遺体が、国分寺市北部から小平町南部にかけての広範囲にわたって落ちてきました。」
この体当たり攻撃については『戦場体験史料館・電子版』というサイトで、当時、飛行兵学校で生活していた少年飛行兵の方がこう書いています。
「1月9日午後2時ごろ、Bー29の大編隊の後、4機編隊が残った。そのうちの1機が遅れた。それに対して日本の飛行機4機が追った。そのうちの1機のエンジンが燃え、上下したかと思えば、墜落・炎上した。(丹下允之少尉)。別の一機が斜め上から行って、Bー29の右肩に体当たりした。Bー29が白から黒の煙を噴出し、落下した。日本の機も落下したが、パラシュートで無事脱出した。(隊長・高山正一少尉)。Bー29撃墜はみなでみていて、万歳と叫んだ。」
ここに出てくる「高山少尉」はその後、1945年1月27日、銚子沖で「我、Bー29を攻撃中」との無線通報を発した後、消息を絶ち、のちに「体当たり戦死」と認定されたそうです。
住民避難の「不発弾」は体当たりされたB29の持ち物だった
戦後になっても、こんなことがありました。
『つばさに託して』から引用
2008年3月27日、東京都調布市の京王線国領駅近くの線路わきで、1トン爆弾の不発弾が地下3㍍地点から見つかりました。
京王線の地下化工事をしていた時に発見されたもので、自衛隊による不発弾処理のため5月18日の昼、京王線の「つつじヶ丘~調布」間が運休。半径500㍍は立ち入り禁止となり、付近住民1万6494人に退去命令が出ました。
近くの住民や記録によると、この不発弾は63年前の1945年4月7日午前10時ごろの空襲の時、調布飛行場から発進した戦闘機「飛燕」による体当たり攻撃で空中分解して落ちたBー29が積んでいたものとみられます。長さ180㌢、直径60㌢の1トン爆弾です。
当時、「飛燕」を操縦していた小波津理英少尉が手記(雑誌・別冊「一億人の昭和史」)を残しています。
それによりますと、エンジン不調のために高度5000㍍あたりまでしか上がれなかったところ、爆撃のために高度を下げてきたBー29の編隊100機に遭遇。二番機の左エンジンに体当たりしました。飛燕の右主翼はもぎ取られて墜落し始め、落下傘で舞い降りて生還しました。
一方のBー29は、機体はバラバラになって国領付近に墜落。乗員11人のうち10人が死亡しました。
さらに、分解されたBー29の主翼が国領で防空壕に退避していた地元のご一家を直撃、8人が死亡しています。
掩体壕も文化財
府中市は「掩体壕」を「史跡」に指定!
調布飛行場の掩体壕のうち、公園の外の府中市の市街地に、掩体壕が1基あります。「白糸台(しらいとだい)掩体壕」です。
府中市は2006年の平和都市宣言20周年を機に、この掩体壕を公有地にして保存することにし、調査結果を踏まえて「史跡」に指定し、文化財として保護しています。
「掩体壕」はコンクリートでできたものは壊すのもたいへんですし、農作業の時に倉庫として使えますので、いまなお全国各地に残っています。
多い順にみますと・・・
①千葉県茂原(もばら)市 10基
②大分県宇佐(うさ)市 10基
③高知県南国(なんこく)市 7基
④北海道根室市 6基
⑤千葉県匝瑳(そうさ)市 4基
大分県宇佐市の1基は特攻基地だった宇佐海軍航空隊のもので、市は1995年3月に「史跡」に指定しました。
高知県南国市も2006年2月、高知龍馬空港近くに点在する7基を前浜掩体群として「史跡」に指定しました。
昭和の時代に日本がアメリカと戦争したことを知らない人が少なからずいるようですね。
戦争に関係した遺跡を「文化財」として保存して語り継ぐことは大事な営みだと思います。
★参考にした資料
編集協力:武蔵野の森公園サービスセンター
②「陸軍飛行第244戦隊史」(櫻井隆著・そうぶん社・平成7年発行)
ほか
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