慶應義塾・日吉キャンパスに残る旧日本海軍連合艦隊司令部の地下壕入口
昭和史研究の第一人者、半藤一利さんが2021年1月12日、亡くなりました。満90歳でした。
遺作となった『戦争というもの』(PHP研究所)に、戦艦「大和」の沖縄への特攻出撃のことが書かれていました。
戦艦「大和」が属した艦隊の司令長官は、沖縄上陸を始めた米軍の艦船に突っ込むというこの作戦に反対で、「大和」が沈没する間際に自分の判断で「突入作戦中止命令」を出しました。乗組員3000人が「大和」とともに戦死しましたが、中止命令で200人余りが命拾いしました。
「大和」に特攻を命じたのは連合艦隊司令部です。その司令部は、海軍では洋上の最前線の「艦船」に置くのが通例でしたが、現場の海から遠く離れた「陸上」にありました。
横浜の日吉にあった「連合艦隊司令部」について、今も残る「地下壕」に4回入るなどして調べてみました。
目次
- 陸に上がった「連合艦隊司令部」
- 連合艦隊司令部が慶應キャンパスに入る
- 連合艦隊司令部の「地下壕」はいつ造ったのか?
- ここで何が行われたのか?
- 寄宿舎は沖縄特攻立案と突入命令を出した場所
- 地下壕の中の構成
- 一番大事な「電信室」
- 暗号室の仕事
- 特攻隊からの通信(ト連送)
- 戦艦「大和」との関係は?
- 沖縄への特攻出撃を命令した!
- 戦艦「大和」の司令長官も反発
- 軍事記者・伊藤正徳による「陸に上がった司令部」批判
- 中島親孝・元連合艦隊参謀による反論
- 敗戦後は売春婦のいる基地の街と化した
- 戦争遺跡としての慶應義塾の「寄宿舎」と地下壕
- 地下壕の見学方法
- ★参考資料
陸に上がった「連合艦隊司令部」
「連合艦隊司令部」は、通常は海の上の「旗艦」に置かれて最前線に立ったものでした。
ところがアジア・太平洋戦争のマリアナ沖海戦(1944年6月)でたくさんの艦船が沈没。司令部を置いていた艦船も戦闘に使わざるを得なくなって、司令部が陸上に移転することになったのです。
なぜ、ここ、横浜の日吉に?
「陸」にあがるにしても、どこに司令部を置くか?
条件として、
②陸上の施設を使えるところ
③空襲を避けるための地下施設を掘りやすいところ
などを満たすところを探しました。
連合艦隊司令部の情報参謀だった中島親孝氏は戦後、「日吉台地下壕保存の会」の聞き取り調査に対し、こう話しています。
「昭和15年(1940年)に慶応大学の学生だった親戚に誘われて慶応の運動会に行った時、いい学生寮があるなと思った。非常時に至ってこの寮のことを思い出し、司令部の人たちに日吉移転を宣伝し、日吉に司令部が来る基礎をつくったのです。」(「日吉台地下壕保存の会」会報=以下、会報と表記=第24号から引用)
「学徒出陣」で慶応の学生不在
「学徒出陣」という国策で、学生がキャンパスから消えていたことも、日吉移転の決め手の1つになりました。
戦前・戦時中は日本に徴兵制度がありました。
徴兵制度は、20歳になった男子は全員、徴兵検査を受けることを義務付け、合格した者は軍隊に入るという仕組みです。
ただし、大学・高等学校・専門学校(いずれも旧制)の学生は、26歳まで徴兵を猶予されていました。
ところが戦死者が増えて、兵隊不足になりました。
1943年10月1日、当時の東條英機内閣は、文科系の学生の徴兵猶予を撤廃し、徴兵して戦争に参加させることを決定しました。【学徒出陣】です。
1943年10月21日、東京・明治神宮外苑競技場で東條英機首相出席のもと、出陣学徒壮行会が行われました。(映像でよく流されるシーンです)
また、徴兵猶予が継続した理科系学生も軍需工場に動員されました。
慶應義塾でも1ヶ月後の11月19日、日吉キャンパス陸上競技場で、大学予科生500人の出陣壮行会が行われました。「予科」は現在の大学の教養部(教養課程)です。
慶應義塾が海軍省と賃貸借契約
第一校舎。現在、慶應義塾高校です。
学生がいなくなった慶應義塾大学に対し、文部省から「海軍に学校施設を貸すように」という要請がありました。
そして、1944年3月10日付で、慶應義塾と海軍省の間で賃貸借契約が結ばれ、約5万坪の日吉キャンパスが貸与されました。
そのうち建物は、大学予科第一校舎の一部(=日当たりのよい南半分)と寄宿舎などです。
第一校舎には軍令部第三部(=世界の情報収集・分析担当)が入り、寄宿舎には連合艦隊司令部が入ることになります。
連合艦隊司令部が慶應キャンパスに入る
寄宿舎(戦後、改修された後、「南寮」:横浜市HPから引用。
連合艦隊司令部が慶應義塾大学日吉キャンパスの学生寮である「寄宿舎」に移ったのは、1944年9月29日でした。
それまで連合艦隊司令部は海上の旗艦「大淀」に置かれていました。
「寄宿舎」は慶應義塾大学予科の学生寮です。「南寮」「中寮」「北寮」の3棟と、立派な「浴場棟」がありました。
「南寮」(=上の写真)は、2階の奥の部屋を司令長官室と長官寝室に改造。ほかに参謀長、参謀副長ら高官の部屋。1階の食堂だったところは食堂兼会議室として使用。
「中寮」は、食堂だったところを作戦室と幕僚事務室に。ほかに各個室を参謀の寝室に充てていました。
「北寮」は、司令部付士官の食堂と寝室。
各棟には個室が40ほどあって床暖房。トイレは様式で水洗。浴場棟は円形のガラス張りで、温泉を思わせたようです。
連合艦隊情報参謀の中島親孝中佐の証言によりますと、寄宿舎に入った当時の司令部の人員は、連合艦隊司令長官以下、幕僚、下士官・兵を入れて総勢420人でしたが、終戦時には1000人近くに膨れ上がっていました。
【会報第32号】
連合艦隊司令部の「地下壕」はいつ造ったのか?
現在の見学者用の地下壕入口。
「寄宿舎」の地下には、大規模な地下壕が掘削され、外部との通信は地下壕で行われていました。一体、なにが行われていたのでしょうか――。
そもそも、地下壕が掘り始められたのは、サイパン島の守備隊が「玉砕」(1944年7月7日)し、本土決戦が現実のものとなってからです。
1944年8月15日に地下壕を掘る部隊が編成され、11月から完成した順に使い始めました。地下壕は、高台のある「寄宿舎」から、斜面下の通称・マムシ谷に向かって広がっています。
地下壕を掘った「海軍第3010設営隊」は、大工や左官をしていた人たちで編成された部隊。その設営隊で給与や食糧調達を担当していた主計中尉が、「日吉台地下壕保存の会」の聞き取り調査に次のように話しています。
「部隊には1200人いた。最初の仕事は寄宿舎の改造。しばらくしてトンネルを掘るのが専門の『鉄道工業㈱』から2000人が派遣されてきて、昼夜3交代で地下壕を掘り始めた。2000人の派遣員のうち、少なくとも700人ぐらいが朝鮮人労働者だった。朝鮮人労働者には難仕事をやらせ、待遇もひどかったようだ。現場に行くと面倒なことが起こる恐れがあるので、近づかないようにしていた。地下壕建設を海軍では築城と呼んでいたが、地下築城はかなりの重労働だったので、時々、酒などを気付けのため調達して出したりした。酒は豊富にあり、下士官までにもよく届けた。たばこ(「黄金バット」)は1日8本配給があった。日吉キャンパス内の地下施設が完成したのは昭和20年5月中旬だった。」
【会報第29号】
ここで何が行われたのか?
寄宿舎は沖縄特攻立案と突入命令を出した場所
パンフ「戦争遺跡を歩く 日吉」(日吉台地下壕保存の会発行)から引用。
寄宿舎は、写真上から、北寮、中寮、南寮。
「作戦室」は寄宿舎の「中寮」にあった
3棟ある寄宿舎の「中寮」に作戦室がありました。
ここでレイテ沖海戦(1944年10月)、硫黄島の戦い(1945年2月)、戦艦大和の沖縄への出撃(1945年4月)、沖縄戦(1945年6月まで)などの作戦が「中寮」作戦室で練られました。
「作戦会議は中寮の食堂を改造した作戦室で開いたが、空襲が激しくなってからは地下壕の作戦室で開いた。連合艦隊の重要な作戦は、軍令部と相談して天皇の裁可を仰いで行った。」
【情報参謀の中島さんの話「会報」第32号】
地下壕からの指令はモールス符号
連合艦隊司令部からの命令電報の「送信」は、海の上にいた時は旗艦の送信機を使いました。しかし、横浜・日吉に移ってからの指令は、地下壕の「電信室」から通信ケーブルを使って「モールス符号」で海軍東京通信隊に送信。そのうえで千葉県船橋市の海軍無線電信所船橋送信所から各艦船に向け、電波を発信して命令を伝えたようです。
ほかに、鹿屋(鹿児島県)、木更津(千葉県)など主要な航空基地、各鎮守府との専用の直通電話も備えていました。
「中寮」の作戦室。写真中央が連合艦隊司令長官豊田副武(とよだそえむ)大将。左端(顔半分)が参謀長草鹿龍之介(くさかりゅうのすけ)中将。右端が航空参謀淵田美津雄中佐。【中島親孝著「聯合艦隊作戦室から見た太平洋戦争」光人社 1988年10月発行から引用】
地下壕に残っている、地上の司令部に通じる階段の上り口。階段を126段上ると、寄宿舎の中寮と南寮の間の中庭に出ました。(現在は封鎖)
幕僚たちの暮らしぶり
連合艦隊司令部電気長だった菅谷源作氏は、日吉での日々についてこう話しています。
「私は電気関係をすべて受け持っており、地下壕全体の様子が最もわかる立場にあった。地下壕の電気は寄宿舎のボイラー室配電盤から引いていた。壕の中には250キロワットの発電機が1基備え付けられ、発電機を回すディーゼル」発電機とその補助機械が備えられていた。絶えず発電機を動かして発電していた。」
「壕の中に常時いた人は、200人ぐらいであった。将校は当直当番が残るほかは家から通っている人が多かった。ただ私たちは外出許可にならなかった。」
「寄宿舎は床暖房をしており、風呂は豪華なローマ風呂であった」
「寄宿舎のガケ近くの日吉駅が見えるところにニワトリ小屋があり、100羽ぐらい飼っていた。一日中、専属の兵士が世話をしていた。長官はニワトリに番号を付け、『きょうはどのニワトリが卵を産んだ』と観察していた」
「幕僚はよく会議をしていたが、長官は会議にあまり参加していなかったように思う。いつも自分の部屋にいたり、ニワトリを見ていた。映画も見ていた。映画は私が五反田の方から借りてきて、週二回、上映した。中寮の部屋で2、3人でみていた。長官は(コメディアンの)エノケン・ロッパの『三尺三五兵』というのを面白がって、3回も繰り返しみていた。」
【「会報」第37号】
ぜいたくな食事
連合艦隊司令長官付の従兵だった金子善一氏は、次のように話しています。
「海軍では、昼は洋食と決まっていて、従兵は食器の並べ方、持ち方、食べ方などを最初に教えられた。」
「長官が食事をする時は、非常時を除いて軍楽隊が演奏した。食事は軍属の烹炊長(ほうすいちょう)がつくり、従兵が運んだ。長官の身の回りの世話、例えば洋服をクリーニングに出したり、靴下や肌着を洗濯したりした。従兵は大事にされていた。太ってきた私は特別に服を作ってもらった。」
「連合艦隊が日吉に移転してからは、豊田長官は南寮に寝泊まりしており、中寮と南寮の間には、長官専用の風呂があった。西側に別の大きな風呂があった。烹炊所(ほうすいじょ)はそれぞれの寮にあった。」
「食事はかなりよかった。参謀以上の将校は、銀シャリ飯(=麦飯ではなく白米の飯)を食べていた。朝食は味噌汁、干物、甘煮、漬物など。昼食はフォーク、スプーンを使っての洋食で、肉料理の時にはワインが付いた。中尉以上と以下は違い、少佐以上はまた違う。下士官は麦と米の割合が7対3であった。量は十分にあり、腹が減ることはなかった。食糧事情はよく、地下に備蓄されていたようだ。」
「中寮と北寮の間で七面鳥を飼っていた。『ニワトリを飼った経験者はいないか』といって飼育係を募集し、1人の兵士がかかりきりで面倒を見ていた。長官が盆栽をもらった時も、経験者を募集した。」
【「会報」第35号】
中島情報参謀も、こう話しています。
「近くの小川で沢ガニがよくとれ、客が来ると天ぷらにして出した。ごちそうだと喜ばれた。」
【「会報」第32号】
地下壕の中の構成
パンフ「戦争遺跡を歩く 日吉」から引用。
地下壕には、司令長官室、作戦室、電信室、暗号室、発電室、バッテリー室、倉庫、水洗便所などが配置されました。
上の図の「A」が見学者用の地下壕の入り口。地上の寄宿舎は図の下の方です。
「F」が地上の寄宿舎(司令部)中庭への階段の上り口です。
「F」に近い「E」が連合艦隊司令長官室です。
司令長官室です。部屋の入り口には「ドアがついていた」そうです。
【司令部電気長の話「会報」第37号】
地下の「作戦室」。詳細図の[L」。
右側の穴が作戦室「L」。(パンフ「戦争遺跡を歩く 日吉」から引用)
地下壕の中の作戦室のようす。(「太平洋戦争と慶應義塾」慶應義塾大学経済学部白井セミナール著から引用。マンガ絵はヒサクニヒコ氏提供)
地下壕の作戦室の天井部分。
作戦室の出入り口。
上の図の「J」が「電信室」、「K」が「暗号室」です。
一番大事な「電信室」
電信室の天井。
電波の受信機が置いてある「電信室」は、全長16.4㍍。明るい蛍光灯に照らされた短波受信機が、真ん中の通路を挟んで壁際に30台ほどありました。
ここで働く「電信員」は150人ほどいたそうで、勤務を交代しながら24時間、モールス信号による通信を傍受していました。
「モールス信号」は、「トン」「ツー」という2つの符号の組み合わせによって数字を表現しました。例えば、「トンツーツーツーツー」は数字の「1」を、「トントントントントン」は数字の「5」を表します。
通常の電文は、この数字の羅列が送られてきます。「電信員」は受信した内容を用紙に書いて、「受信機」の横のベルトコンベアーに載せます。すると取り次ぎ兵がその用紙を隣の「暗号室」に渡すのです。
「電信室」の壁。
これも「電信室」の壁。
「電信室」天井。
「電信室」の壁ですが、突起物はなんでしょう?
「電信室」と「暗号室」の壁は、「板張り」。
【「会報」会報61号】
「電信室と暗号室が、長い部屋に半分ずつ。仕切りはない。」
【「会報」第115号】
地下壕の電信室の様子。(「太平洋戦争と慶應義塾」からの引用。マンガ絵はヒサクニヒコ氏提供)
通信は、地下壕の「電信室」で行われていました。
司令部が発する電文は、「暗号室」で暗号にしてから、この「電信室」に渡されました。
「各部隊への作戦司令は、無線だと敵にキャッチされるおそれがあるため、ほとんど有線で日吉から(東京・霞ヶ関の)海軍省にある海軍東京通信隊を通じ、(千葉県)船橋の送信所から作戦司令が送信された」
【中島親孝情報参謀の話「会報」第32号】
暗号室の仕事
「暗号室」は「電信室」の横にありましたが、仕切りはなかったといいます。「暗号室」も要員が150人ほどいたようです。
「暗号室は机が20㍍並び、前に本立てがあり、暗号書、乱数表などが並んでいました。当時海軍では、呂号暗号書を使用していました。電信室で受信された電報は、暗号室に回され、それを私たちが解読するのです。訳された電報は、10人ほどいた取り次ぎ兵が126段の階段を上って地上の寄宿舎(司令部)に届けます。」
【「会報」第61号】
連合艦隊司令部の命令で沖縄に向かった戦艦「大和」が沈んで行く時の通信は、日吉の地下壕にいた通信兵によって受信されていました。
特攻隊からの通信(ト連送)
米艦船に「ゼロ戦」など戦闘機で体当たりしようとする特攻隊の操縦士は、タテ振り電鍵(たてぶりでんけん)というモールス信号を打つ道具を、太ももに縛り付けていました。
そして、操縦士は体当たりを開始する合図に「ト連送」というモールス信号を使いました。モールス信号の「ト」(・・―・・)を連打するのが「ト連送」です。太ももの上で「トトツートト」「トトツートト」「トトツートト」を繰り返すのです。
そして、まさに突っ込む時は「ツーーーーーーー」とキーを押しっぱなしにし、その信号が途切れた時が体当たり又は撃墜された瞬間を意味しました。
日吉の地下壕で「電信員」だった人が、80歳を過ぎてから当時のことを思い浮かべて次のように書いています。
「なによりつらかったのは、艦船に突撃する特攻隊員との通信でした。飛行中の特攻機はほとんど信号を発信しませんが、しかし、目標が近付くと、『ツー』と信号を出しっぱなしにするのです。そして、この音が突然、途絶えるのです。これは当時は特攻機が敵艦などに命中した、との理解です。この発信音はいまも耳から離れません。」
【「会報」第101号】
バッテリー充電室。
食糧倉庫。
地下壕の通路の真ん中や壁際に排水溝が掘られていて、コンクリートの天井や壁からしみ出てくる地下水をマンホールに集めていました。
デジカメのフラッシュを浴びて白く光っているのは、露です。
きのこのような形をした「竪穴空気口」の地上部分。7つほどあったそうですが、1970年代に破壊され、1つしか残っていません。
戦艦「大和」との関係は?
沖縄への特攻出撃を命令した!
連合艦隊参謀の1人が強硬意見が背景に
半藤一利さんは著書で、次のように書いています。
「連合艦隊司令部に神(かみ)重徳(しげのり)という作戦参謀がいまして、この人が強く主張するんです。敵がどんなに強かろうが、断固として殴り込んでいって決戦するのが海軍の本領なんだ、だから大和は沖縄戦で最期を飾るべきだ・・・と。大激論があったんですが、結局、彼が強引に軍令部総長や連合艦隊司令長官を説き伏せました」
【「あの戦争と日本人」文芸春秋 2022年1月発行】
天皇に海軍のトップが「出撃させます」と言ってしまった
半藤さんは、続いてこうも書いています。
「宇垣纒(うがきまとめ)中将の≪戦藻録(せんそうろく)≫にこうあります。
『沖縄特攻の主因は、軍令部総長(及川古志郎大将)が作戦を天皇に奏上した際に、【航空部隊だけの総攻撃なるや】のご下問に対し、【海軍の全兵力を使用いたします】と奉答せるにあり』
天皇は軽い気持ちで質問したのかもしれませんが、(海軍の最高統帥機関である)軍令部総長が、【出撃させます】と答えてしまったわけです。大和の運命はここに決まったんです」
連合艦隊の参謀長は経過を知らず
日本海軍史研修者の戸髙一成(とだかかずしげ)氏は、「日本海軍戦史」(角川新書、2021年発行)で、次のように書いています。以下、引用します。
連合艦隊の草鹿(くさか)龍之介参謀長は、第五航空艦隊との作戦打ち合わせのために、鹿屋(かのや)に出張中で、この経過をまったく知らなかった。草鹿がこれを知ったのは、作戦決定後であり、電話で(連合艦隊の)神重徳参謀から知らされ、「参謀長の意見はどうですか」と聞かれた。草鹿はさすがに腹を立て、「決まってから、参謀長の意見はどうか、もないもんだ」と憤慨した。
大筋としては、及川(軍令部)総長から直接、豊田(副武)連合艦隊司令長官に話が行き、参謀長不在のまま、早くから水上艦艇による殴り込み作戦を主張していた神重徳参謀の案を採用したものだったらしい。
豊田長官自身は、「うまく行ったら奇跡だ」と判断していたにもかかわらず、この作戦の実施を認め、軍令部に戻した。
小沢治三郎軍令部次長は「長官がそうしたいのならよかろう」とこれを了承した。もちろん及川軍令部総長に異存はない。
こうして天皇の何気ない質問は数日のうちに、戦艦「大和」以下の日本海軍最後の水上艦隊の特別出撃という命令となったのである。
引用は以上です。
戦艦「大和」の司令長官も反発
続いて半藤一利さんの「あの戦争と日本人」からの引用です。
4月6日、連合艦隊参謀長草鹿龍之介中将が、徳山沖に在泊していた「大和」に赴き、「大和」を中心とする第二艦隊の司令長官である伊藤整一中将に会い、水上特攻作戦計画について説明しても、伊藤長官はなかなか納得されなかったといいます。
草鹿さんは1960年冬、私(=半藤)の取材に答えてくれました。伊藤長官はなかなか納得せずにこう言ったといいます。
「いったいこの作戦にどういう目的があるのか。また、見通しを連合艦隊はどう考えているのか」
草鹿さんが「これは連合艦隊命令であります。大和に、一億総特攻のさきがけになってもらいたいのです」というと、「死んでくれ、というのだな。それなら分かった」と納得し、さらにひと言。
「いよいよ大和が行動不能になった時の判断は、私に任せてもらうがいいか」と言いました。
4月6日午後、連合艦隊司令長官豊田副武大将は、草鹿参謀長の報告を受けて、第二艦隊に対し、米軍が上陸を始めた沖縄本島に、全滅を覚悟して突入するよう命令を出しました。「安全」な横浜・日吉の地下壕からの命令です。
3000人が一度に死んだ
戦艦「大和」を旗艦とする第二艦隊は4月7日、停泊していた山口県徳山沖の瀬戸内海から、沖縄に向けて軽巡洋艦と駆逐艦の計10隻で出撃。「大和」は鹿児島県坊ノ岬沖で米軍機の猛攻を受けて艦が傾き始めた。
「大和」艦上の伊藤司令長官はもはやこれまでと思い、幕僚たちに「特攻作戦を中止する。人員救助のうえ、内地(ないち)へ帰投すべし」と命令。沈没を免れた駆逐艦4隻で海面を漂う生存者を救助のうえ、退却させました。
伊藤長官自身は艦橋直下の私室に入り、扉のカギを内側からかけました。
「大和」は沖縄にたどり着くことなく、午後2時23分、きのこ雲を噴き上げて沈みました。「大和」乗組員3332人のうち、伊藤長官以下3056人が戦死しました。
軍事記者・伊藤正徳による「陸に上がった司令部」批判
戦艦「大和」の沖縄特攻は、天皇への忠義を貫いて「湊川(みなとがわ)」で戦った楠木正成(くすのきまさしげ)の旗印になぞらえて、≪菊水作戦≫と呼ばれました。
しかし、軍事ジャーナリストの伊藤正徳は、連合艦隊司令長官が自ら現地で指揮をすることなく地下壕から命令を出したことを非難し、著書「連合艦隊の最後」でこう記しています。
「昭和20年4月の菊水作戦では、❝艦隊❞の形を成しているのはわずかに『第二艦隊』のみ。それも戦艦1、軽巡洋艦1,駆逐艦8という零落である。ここに至って海軍の総大将が旗艦大和に乗って陣頭指揮し、立派に散華するのが帝国海軍の最後を飾る道である、という議論が沸騰し、余韻を残している。いまなお『楠木正成、湊川に行かず』という皮肉が語られるゆえんである。」
中島親孝・元連合艦隊参謀による反論
連合艦隊の参謀の一人、伊藤親孝は著書でこう反論します。
「伊藤正徳氏は『連合艦隊の最後』の中で、司令部が陸に上がったことを非難しておられるが、当時の兵力では、ほかにどのような方法があろうか。」
「司令部が機能を発揮するためには、正確な情報を早く得ること、命令を早く確実に伝えることが必要である。このためには爆撃などに強くて、十分な機能を持つ通信施設が要求される。地下電信室に受信機を並べ、有線と無線の管制装置で、東京海軍通信隊の船橋送信所、横須賀海軍通信隊の六会送信所の送信機を働かせる施設は、十分その機能を発揮できた。決して連合艦隊は伝統を破ったわけではない。」
敗戦後は売春婦のいる基地の街と化した
敗戦後の1945年8月25日、慶應義塾大学日吉キャンパスには、米第8軍通信隊の兵士約700人が進駐しました。
寄宿舎の「北寮」が将校の食堂になり、そこにコックとして勤めていた人が、戦後間もないころの日吉の街の様子を次のように書いています。(「会報」第53号)
「日吉の駅には夕方になると、東京や横浜方面に外出する将校や兵隊さんを相手に、10数人のパンパン(売春婦)がたむろしていて、話がまとまると駅周辺の貸し部屋で商売をしていました。また、綱島では、戦前にあった遊郭が売春宿となり、繁盛しておりました。」
「地下壕の中で(売春婦が)商売をしていて、ある時、金銭上のトラブルで黒人兵がヤクザに殺されたことがありましたので、地下壕への入り口はほとんど米軍によってコンクリートでふさがれてしまいました。現在、農家の庭からの入り口が1ヵ所残っており、地下壕見学の時、入れさせてもらっております。」
「(私自身は米将校から)料理の残った材料は全部家に持って帰り、お父さん、お母さん、兄弟に食べさせてあげなさい、と証明書を書いて持たせてくれました。毎日、一斗缶(18リットル入り)にいっぱいの残り物を家に持って帰り、食べきれないものはヤミで売り、相当のお金をもうけました。結局、朝鮮戦争が始まって彼らが挑戦に出兵するまで働き、それが縁で日吉に住むようになりました。」
1949年10月1日に米軍が慶應義塾から撤退。「寄宿舎」などの施設が返還され、「第一校舎」は慶應義塾高校が使うようになりました。
戦争遺跡としての慶應義塾の「寄宿舎」と地下壕
今も使われている「南寮」(白く横に長い建物)
「作戦室」があった寄宿舎の「中寮」はいま、老朽化が進んだために「北寮」とともにトタン塀で囲まれています。
寄宿舎の「南寮」と「浴場棟」は、2011年度の横浜市歴史的建造物に指定されました。いずれも建築は1937年。
「南寮」は鉄筋コンクリート造り3階建て。2013年に全面改修されて、学生が入居しています。部外者は立ち入り禁止。
「浴場棟」は鉄筋コンクリート造り2階建て、地下1階コンクリート造り。立入禁止です。
(寄宿舎の円形浴場跡【写真提供:慶應義塾】。横浜市HPから引用。)
地下壕の見学方法
連合艦隊司令部地下壕は、一般公開されていません。「日吉台地下壕保存の会」が慶應義塾の許可を受けて毎月、見学会を開いています。
★参考資料
「日吉台地下壕保存の会」会報
「本土決戦の虚像と実像」(高分研・日吉台地下壕保存の会編)
「連合艦隊作戦室から見た太平洋戦争」(中島親孝・元連合艦隊参謀:光人社)
ほか
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~