北穂高岳で味わう至福のひと時

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戦艦大和に「特攻」を命じた場所は慶応・日吉の寄宿舎だった!

 慶応義塾・日吉キャンパスに残る旧日本海軍連合艦隊司令部の地下壕入口

 

 

 昭和史研究の第一人者、半藤一利(はんどうかずよし)さんが満90歳で亡くなったのは、2021年1月でした。

 遺作となった『戦争というもの』(PHP研究所)を読んだところ、戦艦「大和」の沖縄への特攻出撃のことが書かれていました。

 

 戦艦「大和」が属した艦隊の司令長官は、沖縄上陸を始めた米軍の艦船に突っ込んで自滅するというこの作戦に反対で、「大和」が沈没する間際に、自分の判断で「突入作戦中止命令」を出したというんです。

 乗組員3000人が「大和」とともに死にました。が、中止命令で200人余りが命拾いをしました。

 

 「大和」に特攻を命じたのは、連合艦隊司令部です。現場から遠く離れた慶応義塾大学日吉キャンパスの寄宿舎にありました

 

 人の命が軽く扱われた時代でした。横浜・日吉にあった「連合艦隊司令部」について、少し調べてみました。

 

 

目次

 

 

 

陸に上がった「連合艦隊司令部」

 

 連合艦隊司令部」は、通常は海の上の「旗艦」に置かれて最前線に立ったものでした。

 ところがアジア・太平洋戦争マリアナ沖海戦(1944年6月)でたくさんの艦船が沈没。司令部を置いていた艦船も戦闘に使わざるを得なくなって、司令部が陸上に移転することになったんですね。

 

 

 連合艦隊司令部慶應義塾大学日吉キャンパス学生寮である「寄宿舎」に入ったのは、1944年9月29日でした。

 

 

 

 連合艦隊情報参謀の中島親孝(ちかたか)中佐の証言によりますと、日吉の寄宿舎に入った当時の司令部の人員は、連合艦隊司令長官以下、下士官・兵を入れて420人でしたが、終戦時には1000人近くに膨れ上がっていました。

日吉台地下壕保存の会「会報」1993年9月22日】

 

 

寄宿舎は沖縄特攻立案と突入命令を出した場所

 パンフ「戦争遺跡を歩く 日吉」(日吉台地下壕保存の会発行)から引用。

 寄宿舎は写真上から、北寮、中寮、南寮。地上の「作戦室」は中寮にあった

 

 

 

寄宿舎の部屋割り

 3棟ある寄宿舎の「中寮」に作戦室がありました。

 ここでレイテ沖海戦(1944年10月)、硫黄島の戦い(1945年2月)、戦艦大和の沖縄への出撃(1945年4月)、沖縄戦(1945年6月まで)などの作戦が「中寮」か地下壕の「作戦室」で練られ、発令されました。

 若い人が大勢、命を落としました。

 

 「中寮」はほかに、佐官級の参謀の部屋。「北寮」は尉官級の部屋。「南寮」は司令長官、参謀長、参謀副長ら将官級の部屋でした。

 

 

 「作戦会議は中寮の食堂を改造した作戦室で開いたが、空襲が激しくなってからは地下壕の作戦室で開いた

【情報参謀の中島さんの話「会報」1995年3月30日】

 

 

 

 「中寮」の作戦室。写真中央が連合艦隊司令長官豊田副武(とよだそえむ)大将。左端(顔半分)が参謀長鹿龍之介(くさかりゅうのすけ)中将。右端が航空参謀淵田美津雄中佐。【中島親孝著「聯合艦隊作戦室から見た太平洋戦争」光人社 1988年10月発行から引用】

 

 

 

 地下壕に残っている、地上の司令部に通じる階段の上り口。階段を126段上ると、寄宿舎の中寮と南寮の間の中庭に出た。(現在は封鎖)

 

 

 

幕僚たちの暮らしぶり

 連合艦隊司令部電気長だった菅谷源作氏は、日吉の日々についてこう話しています。

 

「私は電気関係をすべて受け持っており、地下壕全体の様子が最もわかる立場にあった。地下壕の電気は寄宿舎のボイラー室配電盤から引いていた。寄宿舎は床暖房をしており、風呂は豪華なローマ風呂であった

「寄宿舎のガケ近くの日吉駅が見えるところにニワトリ小屋があり、100羽ぐらい飼っていた。一日中、専属の兵士が世話をしていた。長官はニワトリに番号を付け、『きょうはどのニワトリが卵を産んだ』と観察していた」

「幕僚はよく会議をしていたが、長官は会議にあまり参加していいなかったように思う。いつも自分の部屋にいたり、ニワトリを見ていた。映画も見ていた。映画は私が五反田の方から借りてきて、週二回、上映した。中寮の部屋で2、3人でみていた。長官は(コメディアンの)エノケン・ロッパの『三尺三五兵』というのを面白がって、3回も繰り返しみていた」

【「会報」1996年4月6日】

 

 

 

ぜいたくな食事

 連合艦隊司令長官付の従兵だった金子善一氏は、次のように話しています。

「海軍では、昼は洋食と決まっていて、従兵は食器の並べ方、持ち方、食べ方などを最初に教えられた」

連合艦隊が日吉に移転してからは、豊田長官は南寮に寝泊まりしており、中寮と南寮の間には、長官専用の風呂があった。西側に別の大きな風呂があった。烹炊所(ほうすいじょ)はそれぞれの寮にあった」

食事はかなりよかった。参謀以上の将校は、銀シャリ飯(=麦飯ではなく白米の飯)を食べていた。朝食は味噌汁、干物、甘煮、漬物など。昼食はフォーク、スプーンを使っての洋食で、肉料理の時にはワインが付いた。中尉以上と以下は違い、少佐以上はまた違う。下士官は麦と米の割合が7対3であった。量は十分にあり、腹がへることはなかった。食糧事情はよく、地下に備蓄されていたようだ」

「中寮」と「北寮」の間で七面鳥を飼っていた。『ニワトリを飼った経験者はいないか』といって飼育係を募集し、1人の兵士がかかりきりで面倒を見ていた。長官が盆栽をもらった時も、経験者を募集した」

【「会報」1995年9月27日】

 

 

 中島情報参謀も、こう話しています。「近くの小川で沢ガニがよくとれ、客が来ると天ぷらにして出した。ごちそうだと喜ばれた」

【「会報」1995年3月30日】

 

 

 

 

連合艦隊司令部の地下壕

掘り始めた時期

 連合艦隊司令部の地下壕は、サイパン島の守備隊が「玉砕」(1944年7月7日)し、本土決戦が現実のものとなったことから、8月15日に地下壕を掘る部隊を編成。11月から完成した順に使い始めました。

 

 

 

 現在の見学者用の地下壕入口。

 

 私は日吉台の地下壕には見学で4回ほど入りました。20年以上前に初めて見学した時には、農家の庭先から壕に入りました。いまは慶應義塾のテニスコート脇から、鉄扉を開けて入れてもらいます。

 慶応義塾の敷地内ですので、ボランティア団体の「日吉台地下壕保存の会」が当局から許可を得て案内してくれます。

 

 

 

地下壕の中の構成

 パンフ「戦争遺跡を歩く 日吉」から引用。

 

 

 地下壕には、司令長官室、作戦室、電信室、暗号室、発電室、バッテリー室、倉庫、水洗便所などが配置されました。

 

 

 上の図の「」が見学者用の地下壕の入り口。地上の寄宿舎は図の下の方です。

 「」が地上の寄宿舎(司令部)中庭への階段の上り口です。

 「F」に近い「」が連合艦隊司令長官室です。

 

 司令長官室です。部屋の入り口には「ドアがついていた」そうです。
【菅谷源作電気長の話「会報」1996年4月6日】

 

 

 地下の「作戦室」。詳細図の[」。

 

 右側の穴が作戦室」。(パンフ「戦争遺跡を歩く 日吉」から引用) 

 

 地下壕の中の作戦室のようす。(「太平洋戦争と慶應義塾慶應義塾大学経済学部白井セミナール著から引用。マンガ絵はヒサクニヒコ氏提供)

 

 地下壕の作戦室の天井部分。

 

 

 作戦室の出入り口。

 

 

 

 

 上の図の「」が「電信室」、「」が「暗号室」です。

 

 

一番大事な「電信室」

 電信室の天井。

 

 「電信室」には、明るい蛍光灯に照らされた短波受信機が、真ん中の通路を挟んで壁際に30台ほどあって、情報は数字を羅列した「暗号」で送られてきました。

 

 

 「電信室」の壁。

 

 これも「電信室」の壁。

 

 

 「電信室」天井。

 

 「電信室」の壁ですが、突起物はなんでしょう?

 

 

 「電信室」と「暗号室」の壁は、「板張りでした」

連合艦隊司令部暗号兵の栗原啓二さんの話「会報」2002年1月29日】

 

 「電信室と暗号室が、長い部屋に半分ずつ。仕切りはない」

【栗原啓二さんの話「会報」2014年5月2日】

 

 

 地下壕の電信室の様子。(「太平洋戦争と慶應義塾」からの引用。マンガ絵はヒサクニヒコ氏提供)

 

 

 通信は、地下壕の「電信室」で行われていました。この「電信室」は受信専門だったようです。

 

 「各部隊への作戦司令は、無線だと敵にキャッチされるおそれがあるため、ほとんど有線で日吉から(東京・霞ヶ関の)海軍省にある軍東京通信隊を通じ(千葉県)船橋の送信所から作戦司令が送信された

【中島親孝情報参謀の話「会報」1955年3月30日)】

 

 

 

暗号室は机が20㍍並び、前に本立てがあり、暗号書、乱数表などが並んでいました。電信室で受信された電報は、暗号室に回され、それを私たちが解読するのです。訳された電報は、取次兵によって地上の寄宿舎に届けられます

【栗原啓二さんの話「会報」2002年1月29日】

 

 連合艦隊司令部の命令で沖縄に向かった戦艦「大和」が沈んで行く時の通信は、日吉の地下壕にいた通信兵によって受信されていました。

 

 

 

 バッテリー充電室。

 

 食糧倉庫。

 

 地下壕の通路の真ん中や壁際に排水溝が掘られていて、コンクリートの天井や壁からしみ出てくる地下水をマンホールに集めていました。

 

 デジカメのフラッシュを浴びて白く光っているのは、露です。 

 

 きのこのような形をした「竪穴空気口」の地上部分。7つほどあったそうですが、1970年代に破壊され、1つしか残っていません。

 

 

戦艦「大和」が沖縄に突入するようになった流れ

 戦艦大和の最期。(半藤一利「戦争というもの」から引用)

 

 

連合艦隊参謀の1人が強硬意見

 半藤一利さんは著書で、次のように書いています。

 

連合艦隊司令部に神(かみ)重徳という作戦参謀がいまして、この人が強く主張するんです。敵がどんなに強かろうが、断固として殴り込んでいって決戦するのが海軍の本領なんだ、だから大和は沖縄戦で最期を飾るべきだ・・・と。大激論があったんですが、結局、彼が強引に軍令部総長連合艦隊司令長官を説き伏せました」

【「あの戦争と日本人」文芸春秋 2022年1月発行】

 

 

 

天皇に「出撃させます」と言ってしまった

 半藤さんは、続いてこうも書いています。

「宇垣纒(うがきまとめ)中将の≪戦藻録(せんそうろく)≫にこうあります。

『沖縄特攻の主因は、軍令部総長(及川古志郎大将)が作戦を天皇に奏上した際に、【航空部隊だけの総攻撃なるや】のご下問に対し、【海軍の全兵力を使用いたします】と奉答せるにあり』

 天皇は軽い気持ちで質問したのかもしれませんが、軍令部総長が【出撃させます】と答えてしまったわけです。大和の運命はここに決まったんです」

 

 

 

連合艦隊の参謀長は経過を知らず

 作家・児島襄著の著書「戦艦大和(下)」文芸春秋 昭和48年発行)は、次のように書いています。

 

 以下、引用します。

 

 

 鹿屋海軍航空基地(鹿児島県)に出張中の連合艦隊参謀長・草鹿龍之介少将は、1945年4月4日夜連合艦隊先任参謀・神重徳大佐からの電話で、「大和」以下の水上艦隊の特攻作戦を知らされた。

 

 「このことはもうすでに(連合艦隊司令)長官(豊田副武大将)も決裁されましたが、参謀長のご意見はどうですか」

 草鹿少将は「決まってから参謀長の意見はどうかもないもんだ。決まったものならしようがないじゃないか」と声を荒げた。

 

 それにしても「大和」以下の特攻突入作戦の決定は唐突であった。この種の作戦、とりわけ帝国海軍に残された水上兵力の総力を投げ出す重大作戦となれば、当然、軍令部、連合艦隊、さらに第二艦隊の首脳部の綿密な連絡と協議を経て決められるはずだが、出撃する第二艦隊は、司令長官の伊藤整一(せいいち)中将以下だれも事前に知らされず、軍令部、連合艦隊の幹部のほとんども、草鹿少将と同じく、連合艦隊司令長官軍令部総長の決済後に「通告」されているのである。

 

 引用は以上です。

 

 ごもっともな指摘だと思います。

 

 

 続いて半藤一利さんの「あの戦争と日本人」からの引用です。

 


 4月6日、連合艦隊参謀長草鹿龍之介中将が、徳山沖に在泊していた「大和」に赴き、「大和」を中心とする第二艦隊の司令長官である伊藤整一中将に会い、水上特攻作戦ッ計画について説明しても、伊藤長官はなかなか納得されなかったといいます。

 草鹿さんは1960年冬、私(=半藤)の取材に答えてくれました。伊藤長官はなかなか納得せずにこう言ったといいます。

 「いったいこの作戦にどういう目的があるのか。また、見通しを連合艦隊はどう考えているのか」

 草鹿さんが「これは連合艦隊命令であります。大和に、一億総特攻のさきがけになってもらいたいのです」というと、「死んでくれ、というのだな。それなら分かった」と納得し、さらにひと言。

 「いよいよ大和が行動不能になった時の判断は、私に任せてもらうがいいか」と言いました。

 

 

 4月6日午後、連合艦隊司令長官豊田副武大将は草鹿参謀長の報告を受けて、第二艦隊に対し、米軍が上陸を始めた沖縄本島に、全滅を覚悟して突入するよう命令を出しました。「安全」な横浜・日吉の地下壕からの命令です

 

 

 

 

3000人が一度に死んだ

 戦艦「大和」を旗艦とする第二艦隊は4月7日、停泊していた山口県徳山沖の瀬戸内海から、沖縄に向けて軽巡洋艦駆逐艦の計10隻で出撃。「大和」は鹿児島県坊ノ岬沖で米軍機の猛攻を受けて艦が傾き始めた。

 「大和」艦上の伊藤司令長官はもはやこれまでと思い、幕僚たちに「特攻作戦を中止する。人員救助のうえ、内地(ないち)へ帰投すべし」と命令。沈没を免れた駆逐艦4隻で海面を漂う生存者を救助のうえ、退却させました。

 伊藤長官自身は艦橋直下の私室に入り、扉のカギを内側からかけました。

 

 「大和」は沖縄にたどり着くことなく、午後2時23分、きのこ雲を噴き上げて沈みました。「大和」乗組員3332人のうち、伊藤長官以下3056人が戦死しました。

 

 

 

軍事記者・伊藤正徳による「陸に上がった司令部」批判

 戦艦「大和」の沖縄特攻は、天皇への忠義を貫いて「湊川(みなとがわ)」で戦った楠木正成(くすのきまさしげ)の旗印になぞらえて、≪菊水作戦≫と呼ばれました。

 しかし、軍事ジャーナリストの伊藤正徳は、連合艦隊司令長官が自ら現地で指揮をすることなく地下壕から命令を出したことを非難し、著書「連合艦隊の最後」でこう記しています。

 

「昭和20年4月の菊水作戦では、❝艦隊❞の形を成しているのはわずかに『第二艦隊』のみ。それも戦艦1、軽巡洋艦1,駆逐艦8という零落である。ここに至って海軍の総大将が旗艦大和に乗って陣頭指揮し、立派に散華するのが帝国海軍の最後を飾る道である、という議論が沸騰し、余韻を残している。いまなお『楠木正成湊川に行かず』という皮肉が語られるゆえんである。」

 

 

 

中島親孝・元連合艦隊参謀による反論

 連合艦隊の参謀の一人、伊藤親孝は著書でこう反論します。

伊藤正徳氏は『連合艦隊の最後』の中で、司令部が陸に上がったことを非難しておられるが、当時の兵力では、ほかに

どのような方法があろうか」

「司令部が機能を発揮するためには、正確な情報を早く得ること、命令を早く確実に伝えることが必要である。このためには爆撃などに強くて、十分な機能を持つ通信施設が要求される。地下電信室に受信機を並べ、有線と無線の管制装置で、東京海軍通信隊の船橋送信所、横須賀海軍通信隊の六会送信所の送信機を働かせる施設は、十分その機能を発揮できた。決して連合艦隊は伝統を破ったわけではない」

【「聯合艦隊作戦室から見た太平洋戦争」光人社発行】

 

 

 

戦争遺跡としての慶応・日吉の「寄宿舎」と地下壕

 今も使われている「南寮」(白く横に長い建物) 

 

 

 「作戦室」があった寄宿舎の「中寮はいま、老朽化が進んだために「北寮」とともにトタン塀で囲まれています。

 権力を握った支配層がおのれの身を「地下壕」という安全地帯に置きながら、しもじもの者に「死」を命じた場所・・・。

 土地所有者の慶應義塾には「戦争の負の遺跡」として寄宿舎を保存して欲しい、と思うのですが、理事の大多数の先生方は「歴史」に関心がないようで、通じないようですね。

 

 「南寮」だけは2013年に全面改修されて、学生が入居しています。

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