北穂高岳で味わう至福のひと時

標高3000㍍の北アルプスに登っていたころの写真記録、国内外の旅行、反戦平和への思いなどを備忘録として載せています。

【解説】東京湾の無人島・猿島にある「砲台跡」の正体

レンガ造りのトンネルの先にあるのは・・・・

 

 「猿島(さるしま)」――東京湾の入り口、神奈川県横須賀市の船着き場から「1.7㌔先」に浮かぶ無人

 

 周囲約1.6㌔、遊歩道が整備されている南北は約450㍍で、東京ドームより少し大きいぐらい。

 横須賀市が公園として整備し、若い人たちが手ぶらで訪問してBBQ(バーベキュー)などを楽しんでいます。

 

 そんな「猿島」ですが、この島に旧日本軍の「砲台跡」があるんです。国の「史跡」に2015年に指定されました。

 

 「猿島公園専門ガイド協会」所属のガイドさんの案内で2023年8月11日猿島砲台跡など旧軍事施設を見て回りました。

 

目次

 

 

 

横須賀から10分の「無人島」

猿島

 

右下が船着き場。左側が「北」。右から左(南から北)に歩きました。

 

 

 「猿島」には船で行きます。乗り場は、横須賀市の「三笠ターミナル」というところ。乗ってから10分で着きます。1時間もあれば島を一周(正確には往復)できます。

 

 

森の中に「レンガ」の壁

 興味深いのは、緑の木々が生い茂る島の中に。赤色のレンガによる建造物があるということ。

 木造建築しかなかったわがニッポンで、レンガによる建築が始まったのは、幕末・・・江戸時代末期に長崎県の平戸のオランダ商館からとされていて、明治時代になってから全国に広がったそうです。でもその後、地震や年月が経ってほとんど失われており、明治時代のレンガの建物は数少ないようです。ここはその1つ。

 木漏れ日の中、こけむす石積みの壁とレンガ積みの壁が美しいコントラストを醸し出していました。

 

 

島の歴史・・・猿島は「軍事施設」だった

 写真は、海軍が管理する港であることを示す明治時代の石碑。

 

 実は、この猿島には「軍事施設」があったのです。幕末以降、東京湾に外国の艦船が侵入して東京を攻撃するのを阻止するため、「砲台」が造られた東京湾要塞の1つです。

 アジア太平洋戦争が終わるまで、民間人の立ち入りはできませんでした。

 

 以下、遺構をみていきます。

 

 

小さな発電所

 案内をお願いしました。「猿島公園専門ガイド協会」の方です。横須賀市が「猿島のガイド」として認定した人たちの集まりです。90分で600円。

 

 最初案内されたのは、管理事務所の前にある発電所」(上の写真)。正式な名前は「電気灯機関舎」。明治28年(1895年)に建てられたレンガ積みの小屋と煙突。明治時代は石炭を使った火力発電所だったそうです。猿島山頂に据え付けた「サートライト」用の電気をつくっていました

 

 発電所でつくられた電気は、サーチライトのある標高約40㍍の山頂まで、電線を「マンホール」や「土管」を通して届けたようです。「電柱」ではないんですね。

 

 

「壁」に今も残る銃弾の跡

 「発電所」から緩やかな坂を登っていきますと、道が少し右に曲がっています。その先は見えません。

 そのカーブの壁に銃弾の跡が残っていました。茶色くなっている部分です。

 

 日本がポツダム宣言を受諾して連合国軍の日本進駐が始まった1945年8月30日、猿島には連合国軍のイギリス兵数十人が「武装解除」のため上陸しました。

 見通しの良くないこのコーナーで、日本兵が潜んでいないか警戒して威嚇射撃した跡、だと言われています。真偽のほどは分かりませんが。当時、猿島で彼らを受け入れた日本兵は3人で、丸腰でした。

 

 

 

見どころは要塞跡の『切り通し』

 銃弾の跡を見たら、右に曲がってまっすぐの通路に入ります。

 ここは猿島の中央部を南北に走っている塁道(るいどう)」と呼ばれる露天掘りの空間です。明治時代に服役囚まで動員して掘ったとも言われる「切り通し」です。

 

 道幅4㍍から5㍍、壁の高さは4㍍から10㍍、総延長約350㍍。岩とレンガと緑の葉に覆われた非日常的な空間で、塁道の両側には軍の施設が海から見えないように造られました。

 

 

壁には「弾薬庫」と「兵舎」用の洞窟

 塁道の右側(東側)には、海から見えないように、壁の内部をくり抜いて造った弾薬庫と兵舎が4つ、交互に並んでいますこの上部の高台に、砲台があります。

 

 

「レンガ」は愛知県の侍たちが焼いた

 猿島で使われているレンガの多くは、現在の愛知県西尾市東洋組西尾分局士族就産所で焼かれたものでした。

 上の写真は、「刻印」のあるレンガです。それを読みますと、「愛知名古屋 東洋組瓦磚(がせん) ×造所之印」と確認できます。

 「東洋組」は、明治維新で禄(ろく)を失った武士のために、愛知県令・国貞廉平(元長州藩士)が設立しました。

 

 

 

「弾薬庫」

 「弾薬庫」です。明治14年から17年にかけて、西洋の築城技術をまねて造られました。山を切り拓いて造られており、海上からは施設が見えません。

 

 弾薬庫の入り口は、レンガを積んでアーチ状に造られており、芸術作品のようです。

 

 ふだんは施錠されていて入ることのできない「弾薬庫」と「兵舎」ですが、「専門ガイドツアー」ですと、中に入れます。

 

 弾薬庫の中は、前室(写真手前)と後室(写真奥)の2つの部屋に壁で仕切られています。

 

 前室の隅っこには、内径98㌢の円筒のような竪穴がありました。「揚弾井(ようだんせい)」という遺構です。

 ここから8㍍ほど上の高台にある砲台まで、滑車を使って砲弾をつり上げたようです。

 

 下から仰ぎ見たところ。

 

 光が差し込んできます。高台には、23㌢カノン砲4門が据えられていました。

 

 

 「弾薬庫」には火器を持ち込めないので、左隣に「点灯室」と言うんでしょうか、細い管理用通路が造られました。この通路から奥にある小窓にランプを置きに行ったようです。

 

 

「兵舎」

 「兵舎」です。入り口の両脇に、小窓があります。

 兵舎は当時、「棲息掩蔽部(せいそくえんぺいぶ)」と呼ばれていました。「棲息」とは「動物が住んでいる」ことを意味しますが、兵隊も動物・・・・。

 

 内部は白い壁で、天井はアーチ状のかまぼこ型。間口5.2㍍、奥行き14.5㍍、天井の高い部分4.2㍍。

 

 終戦間際の1944年には、70人ほどの兵士が猿島内の3つの兵舎に分かれて生活していたと言います。

 畳敷きで、真ん中に大きな正方形の火鉢。ハンモックはなく、毛布が1人に3枚与えられたそうです。当時、ここにいた兵士の証言です。

 

 

崩れたままの「兵舎」と石段

 「切り通し」の中ほどの光景です。「兵舎」です。

 兵舎の頭上にある砲台に向かう階段ですが、敗戦後、連合国軍によって大砲が破壊され、そのあおりで周囲も壊れたまま・・・。なんともいえない光景。

 

 

 

レンガ積みのトイレ

 これは何かといいますと、トイレです。「塁道」の、兵舎や弾薬庫の反対側(西側)にありました。右は「小」、左が「大」。

 

 これも「トイレ」です。長く深い穴が2つ、どう使われたのか・・・・。奥のレンガ積みの部分に「部屋」がありますが、これは何なのか・・・。

 

 現在は観光客が歩きやすいように設置されている「木の歩道」です。戦時中は違いました。( ⇓ 下の写真)

 

 木道の一部を開けて戦時中の道が見えるようにしてありますが、歩きにくい道のようです。

 

 

「レンガ積み」の「愛のトンネル」

 「切り通し」の先に、トンネルが見えてきました。

 

 「トンネル」に入ってすぐ、振り返ったシーンです。いい感じ。

 

 すべてレンガ積みで、アーチを描いたトンネルです。高さ4.3㍍、幅4㍍、長さは90㍍。

 トンネル内部は暗く、長いこともあって、カップルが自然に手を取り合うことが少なくないために「愛のトンネル」と言われているようです。

 

 

 「トンネル」の西側の壁に、が何ヵ所か付いています。内部は経年劣化のため入れてもらえませんでしたが、広い地下室になっているそうです。

 上の図の「トンネル」部分を見ますと、扉の向こうの地下は「2階建て(=2層)」になっていて、猿島の「司令部」はじめ兵舎、弾薬庫、倉庫、医務室などがあったとのこと。

 

 

海軍が「高角砲」を設置

 レンガの「トンネル」を抜けると、やっと東京湾を望むことができます。

 この猿島ですが、明治時代に「陸軍省」の所管となり、陸軍」が東京湾に侵入してくる外国艦船を追い払うためにカノン砲という大砲を6門東京湾に向けて据え付けました。

 ところが、関東大震災(1923年)で大砲などに被害が出たことを契機に、実戦を経験することなしに「除籍」になり、所管が「海軍省」に移りました

 

 海軍は、日中戦争1年前の1936年(昭和11年)、航空機を打ち落とすために「高角砲」の台座建設に取り掛かりました。相手は「艦船」から「航空機」に移ったのです。

 「高角砲」は海軍用語で、陸軍では「高射砲」と呼んでいましたが、役割は同じ、対空砲です。

 

 海軍が設置した「8センチ高角砲」のコンクリート製砲座。

 海軍は8センチ高角砲4基設置しました。

 

 ところが、日本本土が米軍機による空襲を受けるようになって分かったのは「B29爆撃機」が「高度1万メートル」を飛行するのに対して、「8センチ高角砲」は「6000メートル」ほどしか飛ばないことでした。

 

 

 そこで敗戦色が濃厚になった1944年11月から「12.7センチ高角砲」の砲座の建設が始まりました。(写真上)

 

 口径が「12.7センチ」といいますと、その砲弾は一升瓶よりひと回り大きなサイズで、重さは約23キロあったそうです。

 この砲弾であれば、高度1万メートル近くまで飛ぶ、と期待されました。

 

 ただ、砲座を囲む砲弾室と思われるコンクリートの壁には、「貝殻」がたくさん混じっています。急いで砲座を造る必要があったうえ、資材不足も手伝って海岸の砂が使われたと考えられています。

 

 

 

防空指揮所跡

 「108段の階段」の上に、展望台があります。ここは猿島の最高峰で、標高は約40㍍。

 写真は、太平洋戦争時の海軍の防空指揮所です。(いま、立ち入り禁止)

 明治期には、この広場の中央に、海を照らすサーチライトが設置されていました。

 

 

 展望台から見える高層マンションのような施設は、 在日米海軍横須賀基地ですね。

 

 

 

横須賀空襲で応戦、発射306発、2人が戦死

 これはあまり知られていない事実ですが、「猿島」も実戦に加わったことがありました。

 

 猿島のある神奈川県横須賀市、アジア太平洋戦争末期の1945年7月18日、米艦載機による空襲を受けましたサイパンテニアン、グアムなどマリアナ諸島から飛んでくるB29爆撃機ではなく、洋上の空母から発進した戦闘機と爆撃機でした。

 その数は、2波の攻撃合わせておよそ500機。戦後わかった主要な攻撃目標は、横須賀軍港の岸壁に係留されていた戦艦「長門」でした。米軍機は真珠湾攻撃の際に、連合艦隊の旗艦だった「長門」を狙ったのです。

 その際、「猿島」でも戦死者が出たのです。

 

 

「12.7センチ高角砲」の砲手の証言

 

 NHKテレビから引用

 

 NHKは2023年8月11日、『戦争遺産島』と題するテレビ番組を放送し、この中で、横須賀空襲時に「猿島」で応戦した元兵士の証言を流しました。

 

 証言したのは、木村孫十郎さん当時、横須賀海軍警備隊・第5高角砲大隊・第16分隊に所属していました。

 木村さんは、「12.7センチ高角砲の砲手」でした。

 証言は、19年前の2004年、横須賀市教育委員会が木村さんに聞き取り調査をした際に録音されたものです。

 

 木村さんが猿島に配属されたのは、1944年8月末。当時19歳。終戦まで任務に就きました。配属当初、70人ほどの兵士が3つの兵舎に分かれて生活していたと言います。

 

 猿島が戦火にさらされる1945年7月18日がやってきました。

 横須賀海軍警備隊が「海軍功績調査部長」あてに送った「軍極秘」の印のある『戦闘詳報 第6号』には、空襲時の様子が記されています。

【15:30】 戦爆連合(=戦闘機と爆撃機の連合)の大編隊、三浦半島南方4500㍍洋上に発見(第1波)

【15:32】 高射指揮官より全砲台へ、敵の態勢を看破、有効なる一撃をもって撃墜すべし

【15:40】 三浦半島西方より横須賀地区に侵入、横空方向に突入せるを迎撃、各砲台射撃開始

【16:00】 戦爆連合の大編隊発見(第2波)

 

 

味方の砲弾の破片で死傷も

NHKテレビから引用。

 

「12.7センチ高角砲」が据え付けられていた台座跡=2023年8月11日撮影

 

 木村さんは、こう証言しています。

「艦載機が来たんで、12.7センチ(高角砲)で25発撃ちました。(味方の)各陣地から(反射した)高角砲(の弾が)、みんな頭の上に来るわけ、砲弾は。そこで炸裂するでしょ。その断片が怖かった。」

25発撃った時、おれ何秒、あと生きているか、これで終わりかと思った。」

アオシマってやつは、大砲の弾、担いだっきり動かないんだ。何やってんだ、早く弾をこっち、といっても青い顔して。見たら首のあたりに破片が刺さってるの。だから動けない。」

 

 横須賀海軍警備隊の戦闘詳報=アジア暦資料センターから引用=によりますと、猿島「高射砲」は306発を発射し、1機を第二海堡(かいほ)と猿島の中間地点で撃墜猿島での戦死者は2人、重傷と軽傷はそれぞれ2人と記されています。

 

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≪参考メモ≫

●島の観光ツアーは2つの団体が行っている。1つはフェリー運航会社の「30分、600円」のツアーで、申込者の99%はコレ。もう1つは「猿島公園専門ガイド協会」の「90分、600円」ツアーですが、戦争遺跡の勉強をするなら迷うことなくコチラがおすすめ。

●大人往復料金は2000円(内訳:猿島公園入園料500円、乗船券1500円)

 

 

www.shifukunohitotoki.net

 

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