北穂高岳で味わう至福のひと時

標高3000㍍の北アルプスに登っていたころの写真記録、国内外の旅行、反戦平和への思いなどを備忘録として載せています。

羽田空港近くの島めぐり(!)

 「城南島」で2022年6月撮影。

 

 

 ママチャリのペダルをこいで6月下旬、熱中症アラートが出るなか、羽田空港近くの「島めぐり」を3時間ぐらいでしてきました。

 

 「島めぐり」―――といっても、伊豆大島や三宅島なんかじゃあありません。空港わきの人工の島

 城南島、京浜島、昭和島、平和島という名前が付いている埋立地です。

 

 

 Aは昭和島、Bは京浜島、C城南島D平和島Eは令和島です。

 飛行機は、Eの令和島の上で向きを変えて矢印のように羽田空港の「B滑走路」に降りてきます

 

 

 埋立地にあるのは工業団地です。板金工場やプレス工場、メッキ工場・・・。騒音や振動といった公害をまき散らすために、街中にいることができなくなり、1970年前後にここに移転してきた中小の工場です。

 観光に行くようなところではありませんね。でも、そこにいったのです・・・。

 

 

 目の前を飛行機が低空で横切っていく・・・「城南島」の入り口付近です。

 

 

 

ただ、城南島(じょうなんじま)にある公園にだけは、一度、お出かけになることをお勧めします。

 

 低空で、ごう音を残して目の前を過ぎていく飛行機――。

 飛行機に興味がなくても、ここで飛行機を見れば、感動しますよ、多分。

 迫力があります。

 

 

目次

 

 

 

 

 

 

飛行機を楽しめるお勧めの「城南島」

 

 1979年に城南島(じょうなんじま)という名前が付いた、1キロ四方の人工島です。

 倉庫や鉄工所など100社が進出しています。

 

 そんな島の中で、家族連れでも楽しめるのが、島の一角にある城南島海浜公園(じょうなんじまかいひんこうえん)です。

 着陸寸前の飛行機を、間近でみられるスポットなんです。「まぢか」で。

 

 

 

 赤い橋のような構造物は、進入灯です。この先が滑走路です。

 

 

 この海浜公園は、羽田空港の「B滑走路」の延長線上にあります。 

 

 羽田空港にある4本の滑走路のうち、B滑走路に着陸する飛行機は、海浜公園の真上を通っていくため、機体のお腹を下から仰ぎ見ることができるんです。飛行機のお腹をみることができる数少ない場所です。

 

 ただ、滑走路の運用の都合で、「南風の時に午後3時まで」に限られています。南風は夏に多いです。

 

 

 

 

 浜辺に立っていますと、左手の空に「小さな点」が現れ、ゆっくり左旋回し、ライトが見えてきます。

 

 

 小さな音が徐々に大きくなって、海浜公園の上を通過する時には手を伸ばせば届きそうな感じ。

 

 

 

 「ゴォー」というエンジン音を残して滑走路に向かう飛行機を、砂浜のみなさん、感動しながら目で追っています。

 3~4分おきに飛んできます。面白いです。

 

 

 

 海に浮かぶ「進入灯」。左には管制塔がみえます。

 

 

 

 

 

 「進入灯」は、言うまでもなく明かりです。飛行機から見て、滑走路に入る方向と、滑走路の中心線を示しています。

 

 

 

 カモメですね。フラフラ飛んでます。

 

 

 

 これが海浜公園の砂浜。全長450m。遊泳禁止ですが、砂遊びや散歩は楽しめます。

 

 砂浜の向こうに見えるクレーンは、隣の令和島。

 

 

 大型船が通ります。東京港に出入りしているんですね。

 

 

 これは隣の令和島に通じる海底トンネルの出入り口です。

 

 

 

 

令和島とは?

 上の図の「」というのが令和島(れいわじま)です。

」が城南島(じょうなんじま)です。

 

 【令和島】は東京都ゴミ処分場として埋め立てた人工島で正式名称は「中央防波堤埋立地」。この土地の帰属をめぐって江東区大田区が裁判を起こして長い間争っていたのですが、2019年9月に島全体の約20%が大田区残りは江東区と決まりました。

 

 令和島には、城南島からも渡ることはできるのですが、歩行者と自転車は通行禁止になっていました。

 

 

 

 

飛行機の撮影スポット「京浜島」

 図の「」が京浜島(けいひんじま)です。

 

 京浜島は1986年に造成が完了しています。ここの工業団地では約200社が操業しています。

 

 京浜島には、大田清掃工場があります。ゴミ収集車がひんぱんに出入りしています。

 

 

 

 

 京浜島の魅力は、島の一角にある「つばさ公園」から、飛行機の胴体を、真横から見られることですね。ここも撮影スポットです。

 

 

 

 対岸に大きく見える管制塔。

 

 

 京浜島の目の前の運河の対岸が羽田空港の「B滑走路」です。

 滑走路に面して「つばさ公園」が約1キロにわたって整備されています。

 

 

 

 つばさ公園からは、「南風の時に午後3時まで」ですが、B滑走路に低空でスーッと入ってくる飛行機の胴体を真横か見られます。管制塔も大きく見えます

 

 

 

 

運動場のある「昭和島」

 

 昭和島(しょうわじま)1967年に造成が終わっています。騒音や振動を抱える金属加工業者が集まって、「羽田鉄工団地」をつくっています。

 

 野球場のほかにも、フットサルコートがありました。

 観光の場ではありません。

 

 

 

 

 

 

 

捕虜収容所があった「平和島

 図の「」が平和島(へいわじま)です

 

 「平和島」といえば、「競艇」を連想する人がいるでしょうね。

 その平和島は現在、「島」ではなく、陸とくっついています。第一京浜(国道15号)と一体となっています。

 

 昔は違いました。太平洋戦争末期、海に浮かぶ「細長い島」だったんです。

 

 

 

海底をしゅんせつした土砂で造った島が「平和島

 東京湾での埋立地造成は、京浜運河」を掘ることとセットで計画されました。

 

 きっかけは1923年(大正12年)の関東大震災。この大地震で地上の交通網がズタズタになったため、大きな船で東京・横浜間を行き来できるようにしようという内容です。京浜運河の開削によって出てきた土砂で埋立地を造り、臨海工業地帯を造るというのが、内務省という中央官庁の計画でした。

 

 

 「平和島」の航空写真。戦後の1946年2月28日米軍撮影。POW研究会サイトから引用。

 

 

 京浜運河の開削は、日中戦争さなかの1939年に始まりましたが、太平洋戦争を始めたことで人手不足になり、1943年には工事が中断しました。

 その結果、しゅんせつした土砂による埋立地が、細長い島となって取り残されました。それが上の写真です。

 

 

 

 拡大写真。島(右側)と陸地(左)の間に、橋が架かっているのが分かります。

 

 

 グーグルマップとの照合です。

 

 太平洋戦争中の1943年7月、軍部はこの「島」に、捕虜収容をつくりました。そして現在の第一京浜から「島」までの180メートル間に、木の橋を架けました

 終戦時の収容人員は米兵を中心に606人(POW研究会)でした。

 

 

 現在の平和島競艇場です。

 

 

 捕虜収容所があったのは、現在の平和島競艇場(通称「ボートレース平和島」)の観客スタンドがあるあたりで

 

 

 

東條英機も収容された

戦後、A級戦犯容疑者仮収容所になり、太平洋戦争開戦時の首相・東條英機商工大臣・岸信介(後に首相)らが、巣鴨プリズンに移されるまで収容されました。

 

 その後、「平和の森公園」が1982年に造られたのと同時に、陸続きになりました。

 

 

 

 

 

 

東京湾埋立を始めたのは徳川家康だった

 東京湾の埋立は、いつ始まったのか、そのわけは?

 

 にわか勉強によりますと、徳川家康が江戸に入ってからのことです。

 家康の江戸入府は、豊臣秀吉の指示でした。

 秀吉は1590年(天正18年9、小田原征伐で北条氏を滅亡させました。その時、秀吉は、三河や浜松を本拠地にしていた家康に対し、北条氏の領地だった関東のいわゆる関八州」に国替えを命じたのです。秀吉は家康が怖いから、遠ざけたのでしょうね。

 

 

 

 

江戸は昔は荒れた湿地帯だった

 関八州の領主となった家康は太田道灌が100年以上も前に築城した江戸城に入りましたが、当時の江戸は、葦(あし)の生い茂る未開の低湿地帯でした。当時の海岸線は現在の皇居あたりまで入り込んでいました。

 

 

 『江戸の川・東京の川』(鈴木理生著・1989年8月発行)から引用。

 

 江戸初期の上の図に、現在のJRの駅を重ねてみますと、日比谷入り江と呼ばれた浅瀬が、皇居外苑」から「日比谷公園」を経て「新橋駅西側一帯」にまで延びていたことが分かります。

 

 

 

 

 

 こちらの図は、家康が1590年に江戸入りしてから翌年ごろまでの江戸中心部の地形と、集落の名前を入れたものです。

 

 家康は関ケ原の戦いに勝利し、1603年に朝廷から征夷大将軍に任ぜられると、武士や町人が住む城下町の建設のために、海の埋立を始めたのですね。

 現在の神田駿河台は「神田山」と呼ばれた丘陵でしたが、ここを切り崩した土で「日比谷入り江」を埋め立てました。これが東京湾の埋立の始まりですね。

 

 その後も神田山の土で、日本橋浜町から新橋までの埋立を続けたそうです。

 

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