北穂高岳で味わう至福のひと時

標高3000㍍の北アルプスに登っていたころの写真記録、国内外の旅行、反戦平和への思いなどを備忘録として載せています。

羽田空港:GHQが拡張のため1200世帯を強制退去させた過去

 2023年11月羽田空港第3ターミナル(旧国際線ターミナル)近くに、ホテルや研究開発施設などが入る地上11階・地下1階の複合施設「羽田イノベーションシティ」が全面開業します。

 

 成長が著しい羽田空港ですが、複合施設が建つこの場所には昔、「3つの町」があり、約1200世帯・3000人漁業などで暮らしていました。

 

 しかし、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)によって強制退去されました。

 

 80年ほど前のことですが、歴史上の「事実」としてあらためて記録しておきます。

 

 

目次

 

 

 

絵本『羽田 九月二十一日』

 上の写真は、【絵本】です。タイトルは「羽田 九月二十一日」。作者は、野村昇司・東京都大田区立志茂田小学校校長(出版当時)。絵は、阿部公洋氏。

 小学校低学年向きの絵本です。

 

アメリカの兵隊がジープにのってやってきた。自動小銃をかまえた兵隊たちは、羽田飛行場に乗り込んだ。飛行場にのこされていた日本の飛行機が鴨場の大池にほうりこまれた。日本は戦争に負けたんだとおもった。」

 

「羽田の住民は48時間以内に町をたちのけというのだ。羽田飛行場をひろげるためだという。とつぜんのことで町はおおさわぎになった。漁で日やけしたおじいさんがさけんだ。おれんちなんか、どこにもしんせきなんてありゃしねえ。どこへいきゃあいいんだ!!

 

「しかし、羽田穴守稲町、羽田鈴木町、羽田江戸見町・・・えびとり川から東がわの約1200世帯・3000人あまりの人たちは、昭和20年9月21日、たちのき命令にしたがった。

 

 絵本の舞台は、ここ、羽田イノベーションシティができた場所です。

 繁栄の陰に、残酷な物語がありました。

 

 

 

 

地図上から消滅した3つの町

 時代は80年ほど前にさかのぼります。

 

ここは住民3000人が追い出された土地

 「羽田イノベーションシティ」が建ったところは、アジア太平洋戦争が終わるまで、3つの町がありました。

 羽田鈴木町(はねだすずきちょう)、羽田穴守町(はねだあなもりちょう)、羽田江戸見町(はねだえどみちょう)です。

 

 海老取川の東側の地域で、約1200世帯、約3000人が漁業や町工場で働いて暮らしていました。3つの町の東隣には穴守稲荷神社競馬場、北隣には羽田飛行場がありました。

 

 

終戦、GHQが羽田空港を接収

 1945年(昭和20年98月15日、戦争が終わり、米軍を中心とする連合国軍の兵士が日本各地に上陸してきました。

 

 GHQの最高司令官、マッカーサが厚木海軍飛行場に降り立ったのは8月30日。GHQは9月12日、羽田飛行場の引き渡しを要求しました。

 1945年9月13日付の「朝日新聞」に、上のような小さな記事が載りました。

 

「羽田飛行場を要求  マツクアーサー司令部では、羽田飛行場を聯合國の日本駐屯軍に引き渡すやう12日、我が当局に申し入れた。同時に滑走路拡張のため海岸線埋立の設備を提供するやう要求してきたが、空港再建のためには二箇月乃至三箇月を要するものと見てゐる。なほ飛行場附近の一部民家に対しても立ち退きが命ぜられることになった。

 

 

 GHQは米国本土から人材や物資を日本に運び込むため、輸送機や大型旅客機が離着陸できるように、真っ先に空港の拡張を考えたのです。

 

 「朝日」の記事は、末尾に「なお書き」でおまけのように立ち退きに触れていますが、当時は新聞を読んでいる人は少なく、これが羽田の3つの町を指すとは住民は知らなかったようです。

 

 

 

 そして9月21日――。GHQは日本の警察を通じ、海老取川以東に居住している全住民、約1200世帯・3000人に対し、48時間以内の立ち退きを命じました。

 

 

48時間以内に立ち退け!

 「絵本」にその時の様子が描かれています。

 絵本『羽田 九月二十一日』は、羽田地区の住民有志が当時の関係者から聞き取った話のメモをもとに事実を再現した作品です。(この絵本は、財団法人伊東奨学会によって大田区内の全小学校に寄贈されています。)

 

 

 当時、満14歳で羽田鈴木町に住んでいた田村保さん(昭和6年3月生まれ)は、『あのとき・・・羽田地区における戦争体験』(平成29年発行)に、次のように述べています。

 

 「(戦争終結後)9月20日までの間に鈴木町、穴守町、江戸見町に進駐軍が来まして、小銃を持って、パトロールしていました。9月21日になって、『ここは飛行場をつくるのだから、48時間以内に立ち退きなさい』というのです。さあ、それは慌てました。まず、長押(なげし)にかかっていた衣類を風呂敷に包む。最初に布団を運び出す。その次に衣類、皿、小鉢などを最小限運び出しまして、いまの弁天橋バス通りに出ました。あの通り一本しかないのです。その他は環八の方ですけれども、これは裏の方で遠く、リヤカーと荷車(=大八車)の渋滞でした。当時は本当に夜中まで、私も親たちと一緒にリヤカーを引き、1日でも早く、いまの大東のほうへ『運び出さないと』と言っていました。」

「退去の時は、弁天橋あたりはじゅずつなぎでした。多摩川べりでは、人が船で物を積んだりしていました。このイラスト(上の絵)のような状況ですね。」

 「(強制退去命令後の1週間は陽が上っている時間は物を取りに変えることが許されたので)海苔乾燥場がトタン張りでなんとか使えそうなので、(焼け残っている建物を)壊して材木とトタン板を持ってきました。それで知り合いの家に50日やっかいになっているうちに、材木からクギを抜いて箱の寸法をそろえ、大工さんに『早くバラックを造ってくれ』とお願いしました。」

 

 「48時間以内に立ち退け」とGHQから警察経由で行われた命令は「口頭」によるものでした。そこで蒲田区長は希望者に、のちのちのために上の写真のような家屋立退証明書を発行したのです。

 

 

 

住民はどこへ?

 GHQから強制的に立ち退かされた「3つの町」の人たち3000人は、どこに向かったのだろうか――。断片的にしか分かりません。

 

 「絵本」では、荷物を積んだリヤカー大八車(だいはちぐるま)は、弁天橋稲荷橋を渡って、海老取川から西に移動する姿が描かれています。

 

 そして仮の住まいは、「白魚(しらうお)稲荷(=現大田区羽田5丁目)の縁の下」や、「海苔干し場のすみ」にバラックを立てたり「六郷川(=多摩川下流の当時の呼び名)の土手っぷち」に掘立小屋を建てました

 

 

 

 大田区生まれで終戦後も6年、バラックで生活していたというノンフィクション作家の小関智弘さんは、こう書いています。

 「かつての住民の多くは、いまだに海老取川の西側の町に住んでいて、空港の変転を見つめている。」「いまもなお、羽田地域は大田区で最も人口の密集した地帯だ。」

(『大森界隈職人往来』1981年4月発行)

 

 

 

 

いまの❝木造住宅密集❞はGHQが原因

 NHKの首都圏ナビという番組で、大田区羽田3丁目の防災 火災の延焼止まらない❝木密❞の危険」というタイトルの放送をしたことがあります。(2022年2月4日)

 羽田空港に近い「羽田3丁目」は木造住宅が密集していて消防車が路地に入れず、火災の延焼リスクが高いエリアの1つ、という番組でした。

 

 この地に親子6代にわたって住んでいるという男性によると、突然、GHQによって土地と家を失った人たちの一部が親戚などを頼手羽田3丁目周辺に押し寄せたため、この男性の父親ら地区の人はそれを受け入れ、空地や庭先に家を建てさせたそうです。

 

 男性は言います。「ただ、開いている場所に家を建てたような感じです。ふつうは区画整理をして家を建てるのが手順でしょうけど、なにせ時間がないですから。手当たり次第に掘立小屋でも何でもつくってすんだわけです。道もなにもかんけいありません。」

 

 原因の1つは、戦後のGHQによる占領政策というわけです。

 

 

 

穴守稲荷神社の「大鳥居」の伝説

 羽田の3つの町の強制移転の時、羽田穴守町にあった穴守稲荷神社遷座を予後なくされました。

 

 その際、蒲田区役所職員と羽田神社宮司、氏子の3人が相談の上、赤色の大鳥居はそのままにし、ご神体を一時的に羽田神社(=大田区本羽田3丁目)に移すことになりました。(その後、1948年に羽田5丁目の現在地に遷座)。

 

 大鳥居はその後も取り壊しを免れ、米軍から羽田空港が返還された後も旅客ターミナルビル前の駐車場に残され、「羽田の大鳥居」として親しまれました。

 その後、空港の滑走路やターミナルビルを沖合に拡張することになり、大鳥居が空港整備の障害になったため1999年2月、現在地の海老取川に架かる弁天橋近くに移設されました。

 

穴守さまのたたり?

 それにしても、なぜ大鳥居は残ったのでしょうか?

 

 「京急グループ110年史」(京浜急行電鉄、2008年発行)には、次のような記述があります。

 「穴守稲荷神社の社殿も壊された。門前に建っていた赤い鳥居はとても頑丈な造りだった。ロープで引きずり倒そうとしたところ、逆にロープが切れ、作業員がけがをしたためいったん中止となった。再開した時には、工事責任者が病死するというような変事が何度か続いた。これは『穴守さまのたたり』といううわさが流れ、稲荷信仰などあるはずもないGHQも、何回やっても撤去できないため、結局そのまま残すことになった。これがその後50年、羽田空港の中の駐車場にポツリと取り残されていた赤い鳥居で、穴守稲荷神社があった場所を特定できた目印でもあった。」

 

 「大鳥居」はいま、国土交通省が管理。額の文字はボランティアの方々によって「穴森神社」から「平和」に変わっています。

 

 

 

土地を追われた人たちが「旧3町顕彰の碑」建立

 京浜急行天空橋」駅の横の広場に、2022年春、「旧3町顕彰の碑」が建ちました。

 

 GHQによって強制的に追い出された元住民らが冷酷な歴史上の事実を後世に伝えていくため地元自治会や地域団体、空港に関連する企業と相談して碑をつくり大田区に寄贈。大田区が建立しました。

 

 碑の周りには、3枚の解説板と、3つの町の地図を書き込んだタイルが配置されています。

 大勢の人が訪れる羽田空港・・・。ですが、土地を追い出され、住んでいた家をブルドーザーで押しつぶされ、地図の上からも存在を消された人たちがいる、ということを知る人は少ない。

 

 

大田区役所に「復元模型」

 大田区役所に、旧羽田3町の復元模型が展示されています。(上の写真)

 

 民間企業の集まりである「東京国際空港周辺開発推進機構」が、住民の証言を参考にして2003年7月につくった「1000分の一の縮尺」の模型です。

 

 ただ、展示されている場所は、区役所2階の通路の端っこ。人目につきにくく、区役所にきた区民も存在を知らないないでしょうね。

 これでは形ばかりです。人生のむなしさを感じます。

 

 

【参考資料】

●絵本『羽田 九月二十一日』(作者・野村昇司、絵・阿部公洋、監修・伊東奨学会、ぬぷん児童図書出版、1988年12月発行)

●『穴守稲荷神社史』(穴守稲荷神社編集、平成20年3月発行)

●『大森界隈職人往来』(小関智弘著、朝日新聞社、1981年4月発行)

●『あのとき・・・羽田地区における戦争体験』(地域力推進羽田地区委員会編集、平成29年3月発行)

●『史誌』第40号(大田区史編さん室編集、平成6年8月発行)

●『京急グループ110年史 最近の10年』(京浜急行電鉄編集、2008年発行)

 

 

www.shifukunohitotoki.net

 

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