北穂高岳で味わう至福のひと時

北アルプス登山、近所の散歩、旅行の記録や健康、反戦・平和への思いなどを、デジカメで撮った写真と一緒に載せています。

「江戸東京たてもの園」で高橋是清邸(2.26事件の舞台)や昔の建物を見て回った

 昔ながらの風情を漂わせる「江戸東京たてもの園」。

 

 

 江戸時代の古民家が保存されているところがあるよ、という話を聞いて6月16日(木)に散歩がてら、行ってきました。

 東京都小金井市小金井公園の一角にある江戸東京たてもの園という施設です。

 

 

 江戸から昭和の初期にかけて都内のあちこちにあった住宅や店が30棟、ここに移され、復元されているのです。

 

 「2・26事件」(にいにいろくじけん)の当事者、高橋是清(これきよ)という大蔵大臣の屋敷も移築・復元されていました。歴史好きにはたまりません。

 

 ゆっくり見て歩いたら、3時間もかかりました。

 以下、高橋是清邸の話を軸に、いくつか建物の写真を載せました。

 

目次

 

 

 

 

高橋是清邸=「2.26事件」の舞台の1つ

 高橋是清邸の母屋。

 

 

 高橋是清(これきよ)は、昔の政治家です。

 この屋敷が、東京・赤坂にあった時のことですが、家の主人の高橋是清が世を憂う若い軍人たちに襲撃されて、2階の寝室で暗殺されたのです。殺害現場となった部屋も公開されていました。

 

 

 

「2.26事件」とは?

 高橋邸の玄関。

 

 

 2.26事件(にいにいろくじけん)というのは、陸軍の青年将校約20人が、1936年(昭和11年)2月26日未明から早朝にかけて、下士官・兵を約1500人率いて起こした軍事クーデター未遂事件です。

 

 リーダーは栗原安秀中尉、安藤輝三大尉、野中四郎大尉らです。事情を知らないまま動員された下士官・兵が多かったようです。

 

 いくつかのグループに分かれて、岡田啓介首相のいる首相官邸や、侍従長官邸朝日新聞社襲撃したり、警視庁や陸軍大臣官邸を占拠。ほかに、重要閣僚の私邸を襲って、高橋是清蔵相斎藤実(まこと)内大臣ら4人を暗殺しました。

 

 

 

 

高橋是清蔵相が襲われた理由

 高橋是清の木像。

 

 

 

 高橋は国民から、「ダルマさん」と呼ばれて親しまれていたようです。でも、仕事には厳しかった。

 当時、インフレが予想されたことから、陸軍省の所管する予算を削減しようとしました。これが陸軍の軍人を怒らせました。軍部の恨みを買った高橋は、2.26事件で殺害対象にされたのです。

 

 

 

高橋是清、銃殺される

 東京・赤坂にあった高橋邸。

 1936年2月26日午前5時ごろ、中橋基明(なかはしもとあき)中尉中島莞爾(なかじまかんじ)少尉が率いる兵士約120人が、現在の港区赤坂7丁目の高橋是清邸に向かいました。

 このうち20人ほどが屋内に突入。中橋中尉が2階寝室(8畳間)に押し入り、白の寝間着姿の高橋に「天誅!」と叫びながら銃弾3発を浴びせ、中島少尉も軍刀で斬りつけてとどめを刺しました。高橋は満81歳でした。

 

 

 

 

 

襲撃した中橋中尉の軍法会議法廷での答弁(5月14日)

 以下は、「二・二六事件裁判記録~蹶起将校公判廷~」(池田俊彦編・1998年2月26日発行・原書房)からの引用です。長いです・・・・・。

 

 

 

【問】高橋邸襲撃の状況はどうか。

【中橋中尉】

 午前五時ごろ、赤坂区表町3丁目、大蔵大臣高橋是清邸に到着し、まず同邸前電車道軽機関銃を2銃、東西に配置し、警官及び憲兵の攻撃に備えました。そして初めの計画はが同邸前にいて中島少尉がハシゴを利用して塀を乗り越え、内部に侵入するという計画でありましたが、実際の状況を見ますと、私どもの襲撃がわずかの間に終わることでありますから、警官や憲兵が来て妨害するようなことなし、と判断し、は表門に近づき、兵4名をもって立ち番巡査2名を取り押さえましたが、1名の巡査が表門の小門を開いて門内に逃げ込みましたので、小門の開くことを知り、兵を呼び、引き続いて小門より侵入し、中島少尉は同邸東側の塀にハシゴをかけ、塀を乗り越えました。はすぐに内玄関の戸を破壊して屋内に入り、中島少尉もまた私に続き、兵も約20名、屋内に入りました。

 

 写真は、1階の廊下。通路の途中に階段があるが、見落とすかもしれない。

 

 

 私(中橋中尉)が先頭になって屋内に入りますと、18歳ぐらいの書生がいたので高橋蔵相の寝室へ案内せよといい、その男に従っていきますと、途中でどこかへ行ってしまい、廊下を回りますと、元の玄関のところへ出てきたので、2、3回回りましたが、2階に上がる階段がありませんでした。

 今度は中島少尉が逆に廊下を回りましたが、その時、家人が廊下を右往左往しておりますので、ケガでもしてはいけないと思い、引っ込ませるために床に向けて拳銃の威嚇射撃をしました。その時、執事が出てきてまして、中島少尉となにか話しておりました。

 

 狭い階段。

 

 

 

 私(中橋中尉)が廊下を逆に回りますと、2階に上がる階段があるのを発見し、その階段を上りました。その時、兵も一緒に階段を上りましたが、二階には広い部屋(15畳間か?)がありましたが、だれもいなかったので、次の部屋のふすまを開けてみますと十畳の間(8畳間の間違いか?)高橋蔵相が布団の中で仰向いて眼を少し開けて寝ておりましたので、天誅を叫び、布団をはね上げましたが、起き上がろうともせず、拳銃を3発、高橋蔵相の腹部をめがけて撃ちました

 そこへ中島少尉が飛び込んできて、軍刀をもって高橋蔵相を斬りました。高橋蔵相はついに即死しましたが、私がはじめ、天誅と叫んでも高橋蔵相は布団の中で従容として薄く目を開き、黙っておりました。私は目的を果たしたので、兵に出ろといい、私も外へ出ました。中島少尉は最後に出てきたように思います。

 

 

 

 

暗殺の様子に異論あり

 しかし、小説家の有馬頼義(よりちか)著「二・二六暗殺の目撃者」(読売新聞社発行・1970年8月)では、暗殺のようすが微妙に違います。

 

 

 次のように書かれています。

 

 

 「事件当時、高橋邸にいた人は、夫人(別棟)、年配の女中・阿部千代(注:高橋是清の寝室の隣の15畳間)、書生、警官ら15人であった。」

 「裁判記録では、高橋は布団をはがれるまで眠っていたようになっているが、(女中)阿部千代の証言は反対であった。信ずべき報告によれば、高橋の寝室に入ったのは、中橋と中島の2人だけであった。中橋はまず「天誅!」と叫んだ。それに対して高橋是清は「馬鹿者!」と怒鳴り返している。

 「ずっと後のことだが、中橋は陸軍刑務所で、自分の父親に、高橋の『馬鹿者!』にたいそうビックリしたと言ったという。」

 

 

 有馬頼義はこの著書の中で、高橋是清の隣室に寝ていた女中・阿部千代から直接「取材」した、としてその結果を次のように書いています。

 

 「阿部千代の証言によると、高橋是清は物音で目を覚まし、驚いて飛び込んできた阿部千代に、屋根の雪が落ちているのだ、と冗談ともつかず言ったそうである。中橋(中尉以下は、しばらく是清の寝室の所在をつかめず、家じゅうの部屋という部屋のふすまや障子をけ破って、高橋の寝室を突き止めた。是清が、雪の音といったのは、ふすまや障子が倒され、踏み壊される音であった。」

 「阿部千代は次のように語った。『わたくしは銃声だと思いましたけれども、旦那様は、雪の音だとおっしゃいました。でもわたくしは奥様をお起こししようと思って、廊下へ出ました。しかし、階段の下で、大勢の兵隊につかまって、動けなくなりました。わたくしはその時、旦那様の寝室で起こった銃声を聞きました。わたくしが旦那様の寝室へ行くことができたのは、兵隊たちが引き揚げてのちでございます。(中略)旦那様は、お床の上を一歩も出られませんでしたので、畳は全然汚れておりませんでした。口から血のアワをお吐きになって、その血を枕が全部吸っておりました。心臓をピストルで射抜いたうえうえに、あの人たちは日本刀を使っていたのでございます。・・・思い出しただけで胸がいっぱいで、もうこれでかんべんしてくださいませ。』」

 

 

 

 

 

 

襲撃した中島少尉の軍法会議法廷での答弁(5月14日)

 キキョウ。

 

 

 

【問】高橋蔵相私邸襲撃の状況は如何。

【中島中尉】

(中略)中橋中尉に次いで、が内玄関から屋内に入りますと、執事らしいものに出会い、私は、静かにせよ、と言いました。その時、廊下に小僧が1人いたので、高橋蔵相の部屋に案内せよと言いましたところ、その男は私と中橋を2、3回、廊下を引っ張りまわりましたので、執事に案内を命じますと、勝手の方へ連れて行くようでありました。その時、中橋が拳銃を2発ぐらい床上に撃ちました。ちょうどそこが階段になっていたので、中橋が階上に行きましたからも続いて階上に上がりますと、十畳の間(注:15畳間の間違い。女中の寝室)に布団が敷いてあり、上ぶとんがはね上げてありましたので、はこれは不可だと思った時、その奥の間(注:8畳間寝室)で、中橋天誅と叫び、拳銃3発を撃ちましたので、はその部屋に飛び込んで、軍刀をもって同室に寝ていた高橋蔵相に斬りつけたところ、肩のあたりを斬り、その先が、わき腹の辺にも当たりました。私はさらに胸部を突き刺し、布団の裏にて軍刀の血をぬぐい、中橋とともに階下に降りて、兵を門前に集合させて引き揚げたのであります。

 

【問】拳銃を撃ち、すでに殺害の目的を遂げているのに、なお軍刀をもって数太刀斬りつけたのは残酷ではないか。

【中島少尉】

中橋が拳銃で撃つと同時に斬り込んで斬ったのでありますから、殺害の目的を果たしたかどうか分からなかったのであります。

 

【問】高橋蔵相私邸を出たのは何時ごろか。

【中島少尉】

午後5時15分ごろであったと思います。

 

 

 

 

 

2.26事件の背景

 高橋邸の玄関を入ったところにある「案内図」。左下が現在地。

 

 

 昭和天皇は、側近が殺傷されたことに激怒し、決起部隊を「反乱部隊」として4日間で鎮圧しました。

 

 「2・26事件」の背景にあったのは「貧困」です。

 不景気で街には失業者があふれていました。農村は農作物の価格が安くて暮らしが厳しく、食糧不足もあって子どもたちは満足に食べられませんでした。自分の娘を「女郎屋」に売る家もあったといいます。

 

 青年将校の一部は、いまの政治が悪いと考えます。天皇を中心とする軍事政権を樹立し、真崎(まさき)甚三郎大将を首班とする内閣をつくって、軍部主導による政治経済体制にしようとしたのです。

 しかし、肝心の天皇には理解されなかったようです。

 

 

 

 高橋是清邸の部屋の配置図。左上が2階部分です。

2階の左側10畳が「書斎」、右側8畳が「寝室」でした。

 

 

 階段を上がり切ったところが、15畳間。

 

 

 15畳間から、寝室(8畳間)を見たところ。

 

 

 8畳寝室。ここで暗殺されました。「2.26事件の現場」です。

 この右手が15畳間。右手にも階段があります。

 

 

 

 書斎は10畳です。8畳の寝室から見た「書斎」。

 

 

 

 10畳の「書斎」。

 

 

 「書斎」の説明文です。

 

 

 

 

 廊下のガラスは、明治時代のものです。

 

 

 2階部分の手前が「書斎」、奥が「寝室」です。

 

 東京・赤坂に建てられたのは1902年(明治35年)です。

 「2.26事件」ののちの1938年(昭和13年)、母屋は東京市(当時)に寄贈され、高橋是清が眠る多磨霊園に移築されました。そのために太平洋戦争末期の空襲は免れました。そして1993年(平成5年)に「江戸東京たてもの園」に移築されたのです。

 

 長くなりましたが、高橋是清邸のことはここまでです。

 

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江戸時代の農家(綱島家)

 かやぶきの家。江戸時代中期に、いまの世田谷区岡本3丁目に建てられた綱島家の住宅。穀物や野菜を作っていたようです。

 

 

 

 

千人同心の組頭の家

 江戸時代に、八王子に配備された徳川家の家臣団のことを八王子千人同心と呼んだそうです。

 「千人同心」というのは1000人ほどの規模だったため、そう呼ばれていて、甲斐との国境を警備するのが仕事。

 組織のボスが組頭。八王子市追分町に江戸時代後期に建てられたこの家は、周りの農家と同じぐらいの広さだそうです。

 

 

 

 

 

江戸時代の農家(吉野家

 江戸時代後期に、武蔵国野崎村(いまの三鷹市野崎)に建てられた農家。村の名主、吉野家(よしのけ)の家らしい。

 

 

 

 

大正時代の田園調布の家

 いまの大田区田園調布4丁目に、1925年(大正14年)に建てられた家。所有者は何度か変わりましたが、1993年まで田園調布にあったそうです。

 

 

 

 

 

乾物屋(大和屋本店)

 戦前の1928年(昭和3年)に港区白金台の通称・目黒通り沿いに建てられた3階建ての乾物屋さん。店の名前は大和屋(やまとや)本店。煙草も売っていました。

 

 

 

 

文具店「武居三省堂

 明治初期に創業した文具店。当初は書道用品の卸をしていましたが、のちに小売店になりました。関東大震災から4年後に、千代田区神田須田町に建てられました。

 

 

 

 

味噌・醤油「小寺醤油店」

 いまの港区白金で大正時代から営業していた商店。醬油店という看板を掲げていますが、本業は酒屋。味噌も量り売りしていました。

 レジスターもおもしろい。

 

 

 

 

 

旅館「万徳旅館」

 青梅市の青梅街道沿いにあった旅館。江戸時代末期から明治初期の間に建てられたとみられます。建物の中は、旅館として営業していた1950年代の様子を復元しています。

 

 蚊帳(かや)です。

 田舎では寝る前に、吊っていましたね。田舎もんだから、なつかしい。

 

 

 

 お風呂。そういえば、幼少期は、こんな風呂だったような気がしないでもない・・・。

 

 

 

 玄関の扉の上には、電話番号を書いたプレートが・・・。いまでも田舎はこうです。

 

 

 

 

 

 

化粧品店「村上精華堂」

 台東区池之端の不忍(しのばず)通りに面して建っていた化粧品屋。奥の土間で化粧品を製造し、卸売りや小売りをしていました。1928年(昭和3年)の建築です。

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