北穂高岳で味わう至福のひと時

標高3000㍍の北アルプスに登っていたころの写真記録、国内外の旅行、反戦平和への思いなどを備忘録として載せています。

防衛省(東京・市ヶ谷)の敷地内で東京裁判と三島由紀夫事件の現場を見た

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 東京裁判が行われた陸軍士官学校「1号館」の模型。法廷として使われた「大講堂」は、1号館の中央部分の三角形の屋根。

 

 

目次

 

 

 

 防衛省が東京・市ヶ谷地区の旧軍施設を見るツアーの参加者を募集していることを知って、2021年2月25日に参加しました。

 

 「市ヶ谷台ツアー」というイベントで、「市ヶ谷記念館」と「大本営地下壕跡」に入ることができました。

 

 見聞録は2回に分けて書きます。1回目の今回は、市ヶ谷記念館です。

東京裁判」と「三島由紀夫事件」がテーマです。

 

 

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 「市ヶ谷台」というところ

 

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 防衛省の正門(東京都新宿区)

 

 

市ヶ谷台(いちがやだい)」はJR市ヶ谷駅の西にある海抜31.4の高台です。

防衛省のあるところです。

 

 江戸時代には、徳川御三家の1つ、尾張徳川家上屋敷がありました。

 

 明治に入って、陸軍の将校を養成するための陸軍士官学校が開校されましたが、関東大震災で全焼。

 1937年(昭和12年)6月に陸軍士官学校本部として鉄筋コンクリート造りの「1号館」が完成しました。

 地上3階、地下1階、延べ床面積約2万5700㎡。

 

 

 

「1号館」という建物について

 

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 「1号館」の模型。正面からみた姿。 

 

 

 1941年(昭和16年)12月8日、太平洋戦争が始まると同時に、

陸軍省参謀本部などが市ヶ谷台に移転してきて、1号館を使い始めました。

 

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 1号館の1階部分の配置図。図の中央下が「玄関」。1階は右側が参謀本部、左側が陸軍省

 

 

 

参謀本部は、作戦の立案を担当する部門。

陸軍省は、行政組織。

戦争中は敗戦まで、この1号館に「大本営陸軍部」も置かれました。

 

 

大本営とは?

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 「大本営陸軍部」の看板。

 

 

大本営(だいほんえい)」というのは、もともと戦時中天皇のもとに置かれた最高戦争指導機関のことです。「陸軍部」と「海軍部」から構成されますが、

実質的には陸軍参謀本部海軍軍令部がそのままスライドした組織でした。

 

 

 初めて「大本営」が設置されたのは日清戦争の時で、戦争が終われば解散していましたが、日中戦争が始まった1937年からは常に設置されることになりました。

 

 

 

市ヶ谷記念館について

 

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 「市ヶ谷記念館」。

 

 

 

 市ヶ谷記念館は、1998年10月に完成しました。

 

 建設のきっかけは、1987年に防衛庁防衛省の前身)が檜町地区(港区)から市ヶ谷台に移転することが決まり、1号館を取り壊すことになったことです。

 

 すると、1号館を保存しようという声与野党の国会議員から上がったのです。

 「1号館の中の大講堂は陸軍士官学校大本営陸軍部が使った第一級の戦争遺跡だ」

 「東京裁判が行われたところだから保存しておくべきだ」

などなど。

 結局、「一部保存」を防衛庁は決めました。

 

 

保存されるのは、1号館のうち、

正面玄関の車寄せ

大講堂

陸軍大臣(のちに陸上自衛隊東部方面総監室)

便殿(びんでん)の間

――の4施設。元の位置から西に200㍍ほど移し、再構成して建てたのが市ヶ谷記念館です。

 

 1999年4月から一般公開しています。

ただし、記念館は鉄筋コンクリート造り2階建てで、延べ約1644㎡。

「1号館」の約16分の1の大きさになりました。

 

 

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 大講堂の正面に設けられた玉座(ぎょくざ)。天皇が腰かけるイスです。

 

 

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 大講堂の床は、30センチ四方の板が約7200枚、敷かれました。ナラノ寄せ木です。配列は陸軍士官学校当時のままだそうです。

 

 

 

 

大講堂

東京裁判極東国際軍事裁判の法廷に

 

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 1号館の模型。

 

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 大講堂のアップ写真。大講堂は、1号館の2階部分にありました

 

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 上の2階部分の図面で、「大会議室」とあるのが「大講堂」のこと。

 

 

 

 1号館の大講堂は敗戦後、東京裁判(正式名称:極東国際軍事裁判)の法廷として使われた、という歴史を持っているのです。

 

 東京裁判は、日本が1945年、アジア・太平洋戦争ポツダム宣言を受諾して降伏したのちに、連合国軍最高司令官マッカーサーの命令で設置された裁判所が、元首相の東条英機ら日本の戦争指導者に対して行った裁判のことです。

 

 1946年5月に開廷し、1948年11月の判決で、A級戦犯28被告のうち、

東条ら7人が絞首刑になるなど25人が有罪とされました。

 

 

 

 

★以下の「東京裁判」の7枚のモノクロ写真は、米国公文書館所蔵のもので、これらの写真データを取得した「防衛省市ヶ谷記念館を考える会」のホームページから引用しました。

 

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 写真の最上段は陸軍士官学校当時は玉座でしたが、東京裁判の法廷では

「通訳席」に変化しました。

 その下の1段は特別傍聴人席。

 特別傍聴人席の下の4段は、向かって左側が検察団席、右側が弁護人席

 写真左下の列は裁判官席

 

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  傍聴人席(張り出した2階席)から見下ろした、現在の大講堂と玉座

(床には現在、展示ケースやビデオを観るためのイスが配置されています)
 

 

 

 

 

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 上の写真とは逆に、玉座東京裁判時は通訳席)からみた大講堂。(現在)

 

 

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 通訳席からみた法廷。奥の2階は傍聴人席。傍聴人席の下は記者席。左側が被告席。右端は裁判官席。手前が証人台

 

 

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 2階は傍聴人席。1階は記者席。

 

 

 

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 証人台。

 

 

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 証人台に立つ元首相の東条英機

 

 

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 被告席。

 

 

 

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 上段が裁判官席。中段が法廷書記席。

 

 

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 裁判官席のうしろには、連合国の国旗が掲げられていました。(現在)

 

 

 

 

 

陸軍大臣

三島事件

 

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 1号館の正面玄関上のバルコニー。(模型)

 

 

 1号館は戦後、日本に返還されたあとは、陸上自衛隊市谷駐屯地となり、

2階の元陸軍大臣東部方面総監部の総監室として使われました。

 この部屋で三島事件は起きました。

 

 

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  ノーベル文学賞候補として知られていた作家の三島由紀夫が1970年11月25日、陸上自衛隊市谷駐屯地で、憲法改正に向けて自衛隊クーデターを起こすように呼び掛けた後、割腹自殺した事件です。

 

 三島は自ら率いた民兵組織の仲間4人とともに、2階の総監室で総監と面談。途中で計画通り、総監をイスに縛り付けて拘束。

 物音で駆けつけた自衛隊員を三島は持参した日本刀で次々斬りつけました

 この乱闘で自衛隊員8人がけが

 

 この後、三島は部屋の一番左の窓を上にあげてバルコニに出て、三島の要求で1号館の前庭に集められた1000人近い自衛官に向かって演説。

 

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 総監室の前のバルコニー。窓を開けて三島は出ました。

 

 

「・・・自衛隊が立ち上がらなきゃ、憲法改正ってものはないんだよ。諸君は永久にねね、ただアメリカの軍隊になってしまうんだぞ」

 

などと10分ほどクーデターを呼び掛ける演説をしました。

 

 

 その後で総監室の赤じゅうたんの上で割腹自殺しました。下の写真のドアの前です。

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 ドアに残された刀傷。総監室と隣の部屋の境のドアには、3カ所の刀傷があります。総監を助けようとして部屋に入ろうとした自衛隊員が三島に斬られた時にできた日本刀による傷です。

 

 

 

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 この「市ヶ谷台ツア」ーは、「市ヶ谷台の歴史」という大きな流れを知ってもらうのが防衛省の狙いらしく、東京裁判三島事件の詳細な説明はありませんでした。

 でも、大きな出来事の現場が半世紀以上たった今も保存されていて、そこに自分が立つことができるというのは、光栄なことだと思います。