「外交官の家」という名の洋館。
目次
- 今も残る8つの洋館
- 横浜に洋館がいくつもあるわけは?
- ブラフ18番館
- 外交官の家
- 旧山手68番館
- ベーリック・ホール
- エリスマン邸
- 山手234番館
- 横浜市イギリス館
- 山手111番館
- おまけ: 外国人墓地
横浜の山手(やまて)エリアといえば、丘の上の高級住宅街。そこに洋館(=西洋館)が8つ、保存されています。ひとまとめにして横浜山手西洋館と呼ばれています。
このあたり、江戸時代末期に外国人居留地になったんですね。
出口の見えないコロナ禍。気分転換に4月8日(金)、ゆったりと散策を楽しんできました。
洋館に入るのに、お金はいりません。いまもなお、エキゾチックな面影が残っています。
以下は、建物の紹介。
横浜山手西洋館マップ。左下がJR石川町駅。上がみなとみらい線元町・中華街駅。
今も残る8つの洋館
①ブラフ18番館
②外交官の家
③旧山手68番館
④ベーリック・ホール
⑤エリスマン邸
⑥山手234番館
⑦横浜市イギリス館
⑧山手111番館
(おまけ)
このうち「旧山手68番館」を除いた7つの西洋館を横浜市が保存して、管理を財団法人に任せています。室内はどこもきれいに掃除されていて、スリッパに履き替えて参観します。
横浜に洋館がいくつもあるわけは?
横浜というところは、徳川幕府が外国人居留地に指定した特別の場所なんですね。
鎖国を続けてきた徳川幕府は1858年、アメリカなど5つの国と通商条約を結び、横浜港の開港と、貿易商の外国人が安心して住むことができる場所を決めました。それが今の横浜市中区山下町と山手町。そこに洋館や教会、商社が建ちました。
ところが1923年(大正12年)9月1日の関東大震災・・・これは相模湾を震源とするマグニチュード7.9の巨大地震ですが・・・で、当時の建物はほぼ全壊。
現在保存されている洋館は、震災後に建てられたもので、元町公園と山手公園、山手イタリア山庭園、港の見える丘公園に移築して復元されたものです。
ブラフ18番館
山手イタリア山庭園の入り口。
ブラフ18番館は、山手イタリア山庭園の中に建っています。イタリア領事館が1886年(明治19年)までここにあったために「イタリア山」と呼ばれているとか。
ブラフ18番館です。
ブラフ18番館は、JR石川町駅を見下ろす崖(がけ)の上にあります。名前は、この場所の旧地名が「山手居留地18番」だったことに由来しています。「ブラフ」は絶壁という意味です。
ブラフ18番館の建物はもともと、関東大震災後の復興期に「山手町45番地」に建てられて、バウデンという名のオーストラリアの貿易商が住んでいました。それが1993年になって現在地に移築・復元されました。
木造2階建てのこぢんまりとした邸宅。室内にはサンルームがあって、光が降り注ぎます。
オレンジ色の瓦の屋根や緑色のよろい戸と上げ下げ窓が白い壁に映えて、とってもきれいです。
庭園もいいですね。
外交官の家
外交官の家。これも山手イタリア庭園にあります。
とがった屋根が印象的な邸宅です。
内田定槌(うちだ・さだつち)という明治・大正時代に海外で活躍した日本人外交官が住んでいた邸宅です。
東京・渋谷の南平台に明治時代に建てられ、1997年に現在地に移築・復元されました。
外交官の家と命名された旧内田家の邸宅は、渋谷から現在地に移築された時に、国の重要文化財に指定されました。
旧山手68番館
この建物は1934年(昭和9年)に、外国人向けの賃貸住宅として「山手68番地」に建てられました。平屋建てです。
1986年(昭和61年)に現在地に移築されて、いまは「山手公園」の管理事務所として使われています。
ベーリック・ホール
イギリス人貿易商のベリックの邸宅、ベーリック・ホールです。1930年(昭和5年)に建てられました。敷地は600坪。ベリックの死後、宗教法人に寄贈されましたが、2000年に横浜市が敷地を取得、邸宅も市に寄贈されました。
外観は、スペイン風の建築で、3つのアーチが連なったところが玄関になっているのが印象的。
玄関を入ると、床は白と黒のタイル張り。
写真左上は、壁泉(へきせん)です。壁際に造った人工の滝です。ライオンの顔の口から、水が出るようにしてある装飾品ですね。水の落ちる音や姿で癒されるんでしょうね。
壁泉は、建物の外にもありました。
展示されていた模型。
この豪邸には、浴室が3つもあるんですね。夫婦の寝室の間、息子さんの部屋、そしてお客さんの寝室にも。
エリスマン邸
エリスマンというスイス生まれの生糸貿易商の私邸。震災後に「山手町127番地」に建てられました。
その後、マンション建設のために解体され、1990年にいまの「元町公園」に移築されました。
庭に面したサンルーム。天井も高く、ぜいたく。
これは・・・・洋館ではなく、手作りケーキ屋さんでした。
山手234番館
木造2階建ての外国人向けアパート、山手234番館。
関東大震災(1923年)の後に建てられました。震災後は横浜から神戸に移り住む外国人が多かったため、彼らに戻ってきてもらおうと、震災復興事業の一環として建設されました。
1975年ごろまで使われたようです。
建設された当時の模型。改装された今と少し違います。
建設された当時は、各階に2戸ずつ、計4つの住戸がありました。それぞれ3LDKの間取り。1階の玄関ポーチの上に、2階バルコニーがあります。
横浜市イギリス館
横浜市イギリス館は、イギリス総領事の公邸として1937年に建てられた洋館です。鉄筋コンクリート造り2階建て。
1969年(昭和44年)に横浜市が手に入れ、いまはコンサートや会議に使われています。
港の見える丘公園の隣にあります。そのせいか、ここはデートスポットになっているらしい。
山手111番館
1926年(大正15年)に山手の111番地に建てられた「山手111番館」。アメリカ人の邸宅です。赤い瓦屋根と白壁のコントラストが素晴らしい。港の見える丘公園のバラ園を見下ろす位置にあります。
一階は吹き抜けのホールになっています。
この洋館の脇にまわると、チューリップが咲いていました。
おまけ: 外国人墓地
さて、こちらは趣が変わって、お墓です。有名な横浜の外国人墓地。20年ぶりにここに来ましたが、荒れていました。
ちょっと調べてみたところ、この墓地ができたきっかけは、江戸時代の1853年(嘉永6年)の米軍人ペリー提督率いる「黒船」4隻の来航です。
ペリーは三浦半島の久里浜に上陸して、鎖国中の幕府に開国を迫ったのですが、その折に乗組員の水兵さんが1人、事故で亡くなって、埋葬地を幕府に要求したんですね。そこで提供されたのが、いまの外国人墓地の一角。その後、来日する外国人が増えて、お墓の範囲が広がったというわけです。
ここを管理しているのは、公益財団法人横浜外国人墓地という財団。国や地方自治体ではありません。宗教がらみのためでしょうかね。
時が経つにつれ、無縁墓地が増え、雑草が生い茂ります。
財団は墓地見学を一般に公開してお金を募り、清掃や植栽の費用に充ててきましたが、「コロナ禍」で非公開を続けているため、募金が集まらないようですね。
墓地は密室ではないのだから、人数を絞って公開すればいいと思うんですがねえ・・・。
港の見える丘公園からは、横浜港や横浜ベイブリッジが見えます。
港の見える丘公園に咲く花・・・。