北穂高岳で味わう至福のひと時

標高3000㍍の北アルプスに登っていたころの写真記録、国内外の旅行、反戦平和への思いなどを備忘録として載せています。

谷川岳登山の後に泊まった湯檜曽(ゆびそ)温泉・林屋旅館の話

 林屋旅館の大浴場。湯気で白っぽい。(2023年3月15日撮影)

 

 

 快晴無風の2023日3月15日、積雪がまだ2メートル以上ある谷川に登山して、ふもとの湯檜曽(ゆびそ)温泉に1泊しました。

 

 以下は、その温泉宿の話です。静かで落ち着けました。

 

目次

 

 

 

 

湯檜曽温泉に泊まった

 湯檜曽温泉は、18ヵ所の温泉地から成る群馬県の「水上温泉郷(みなかみおんせんきょう)」の1つ。谷川岳登山口の谷川岳ロープウエイ駅から一番近い温泉地です。

 

 ただ、下山後に湯檜曽温泉方面に行くバスの本数が少ないのが難点。マイカーの人が多いからなんでしょうが・・・。

 

 午後3時すぎに、ロープウエイで山から下りてくると、3時10分発のバスは出た直後でした。(時刻表の3時50分発は、4月以降の運行でした)

 1時間待って、午後4時15分発に乗ったバスの乗客は、私のほか2人。ご高齢の登山者と、スキーのレスキュー関係の仕事をしている外国人女性。

 

 バスに乗ること、7分間。「湯檜曽温泉街」というバス停で降りました。❝温泉街❞とはいうものの、商店も歓楽街もなく、時折車が通るだけ。「さびれているなあ~」という印象でした。

 

 

 

林屋旅館のこと

 1週間前に予約しておいた宿は、老舗の林屋旅館。バス停の前でした。

 

 林屋旅館を選んだわけは、3点。第1に、谷川岳ロープウエイから遠くない距離にあること。第2に、1人旅用プランがあること。第3に、源泉100%かけ流しの風呂であること。

 

 

 小さなお宿でした。客室の数は、2階に5室、3階に6室の計11室。

 

 

 林屋旅館のホームページや宿の人の話によりますと、創業は大正11年(1922年)。ヒノキ造りの旅館で、高級感があった、といいます。ところがその数年後に近所で火災が発生、❝もらい火❞で建物を焼失しました。

 当時の主は、一時は再建をやめようかと考えましたが、思い直して昭和初期に旅館を再建したようです。

 そのころ撮影したのが下の写真です。

 昭和初期の林屋旅館(林屋旅館2階の廊下に掲げてある額縁を接写)

 

 

 再建当時はこの近くでは、国鉄上越線清水トンネルの建設中でした。(1922年着工、1931年開通)

 トンネルを掘る作業員が連日、大勢泊まっており、商売繁盛だったようです。渋川市の高利貸しから借金して旅館を再建しましたが、じきに返済できたという話でした。

 

 昭和9年(1934年)秋には、歌人として知られる与謝野晶子が夫の鉄幹と泊まったという記録があります。まあそんなことはともかくとして、その後も今日までに何度かリニューアルしているようです。

 

 いまの林屋旅館

 

 

 

 

部屋

 案内された部屋は、2階の205号室。7畳のこぢんまりとした落ち着く部屋でした。窓の下を流れるのは湯檜曽

 川の水がザーザーと流れる音が、窓を閉めても部屋の中まで聞こえてきました。温泉地らしく、心地よいものでした。

 

 

 

 

風呂

 大浴場です。この旅館の自慢の風呂です。

 

 天井が「アーチ型」になっているのが特徴です。しゃれていますね。

 

 上の写真は、湯気が充満しているため全体が白っぽいですが、大浴場は「L」字型で、床はモザイクタイルがはってあります。

 

 

 この風呂のエピソードです。

 昭和初期に、旅館の建物と一緒につくられた大浴場ですが、昭和17年ごろ、「タイル」を職人さんに頼んではってもらい始めました。

 ところが、折しもアジア太平洋戦争中のことで、職人さんに軍部から召集令状が届き、戦地に赴くことになったため、作業は天井のアーチ型部分を残して中断してしまいました。

 運よく、職人さんは生還し、戦後、残りを仕上げてくれた、という話です。

 

 

 大浴場の壁には、スキーのジャンパーのタイル画がありました。これは 宿の今は亡きご主人が若いころスキーのジャンプをしていたことから、描いてもらった、という言い伝えです。

 

 

 風呂は「内湯」のみで、モザイクタイル張りの大浴場のほかにもう1つ、小浴場があります。(上の写真)

 

 

 大浴場と小浴場は、「午後7時ごろ」をはさんで、のれんを掛け替える格好で、男女の利用の入れ替えをしていました。

 

 チェックインから午後7時ごろまでは大浴場は女性客が利用し、それ以降は男性客が翌朝のチェックアウトまで大浴場を利用できました。

 小浴場はその逆。両方とも24時間入浴できました。

 

 

 

24時間入浴可

 林屋旅館のお風呂の❝うり❞の1つは「24時間いつでも入浴できる」ということ。

 脱衣所の入り口で、部屋からはいてきたスリッパを脱ぐことになっているため、先客がいれば、おおかたのみなさんは入浴を差し控えます。だからお互いに独り占めを楽しめます

 

 私は4回も入浴しました。貸し切り状態で。チェックイン直後の午後5時前。夕食後の、風呂の男女入れ替え後の午後8時。翌朝5時すぎのまだ暗いうち。そして朝食前の午前7時。湯につかるために一泊したのですから・・・。

 

 

 

 

源泉は2つ

 林屋旅館の温泉の「源泉」は2つありました。1つは「林屋の湯」という名前。もうひとつは「音松の湯・薬師の湯の湯混合」。この2本の源泉をブレンドして湯加減を調節しているようですね。

 

 脱衣所に張ってある【温泉成分等掲示表】です。

 

 こちらは、平成6年(1994年)8月15日、群馬県衛生環境研究所という分析機関による調査結果の一部です。

 ●源泉名: 音松の湯・薬師の湯 混合泉

 ●泉質: 単純温泉

 ●源泉の温度: 47.2℃

 ●pH値 8.2

 

 

 

 もう1本の源泉の成分分析です。

 平成11年(1999年)12月14日、群馬県薬剤師会環境衛生試験センターによる結果です。

 

 ●源泉名: 林屋の湯

 ●泉質: 単純温泉

 ●源泉の温度: 41.4℃

 ●pH値: 7.9

 

 ★この2つを混ぜて、42℃から43℃にしているんでしょうね。

 

 

 

 

単純温泉? pH値? なんのこと?

 黄色い壁の建物が林屋旅館。白いパイプで対岸の源泉から湯を引いているんでしょうか。

 

 

 

 

 【単純温泉】と聞くと、効能が薄い、と思ってしまいそうですが、どうもそうじゃないようです。

 

 「温泉」というのは、液体が地上に湧き出た時の温度が25℃以上の温水のことをいうそうです。

 

 その温泉に溶け込んでいる物質(塩素イオンとか硫酸イオンなど)が、「1キログラムあたり1000ミリグラムに満たないもの」のことを「単純温泉」と呼んでいます。基準にしている一定量に達していないために「単純」と呼んでいるようで、肌への刺激が少なく、高齢者や子供に向いているそうです。

 

 

 

 温泉の【pH値】(=水素イオン濃度指数)によって、温泉を分類する方法もあります。

 pH(ピーエイチ)値は、液体を「酸性」「中性」「アルカリ性」に3分類する尺度で、0から14までの範囲で示されます。

 

 環境省が決めた尺度(=鉱泉分析法指針:2014年改訂)をみますと、「PH6以上7.5未満」を「中性」として、中性より数値が小さくなるほど酸性が強く、酸っぱくなるのが特徴。

 逆に、中性より数値が大きく高くなるほどアルカリ性が強くなってヌルヌルします

 

 ★林屋旅館の場合は、「弱アルカリ性」(=pH7.5以上8.5未満)という枠内ですので、「アルカリ性単純温泉」という部類に属するんです。

 

 

 

 

 

食事

さて、食事です。朝夕とも「部屋食」というスタイルでした。3つのお膳で料理を運んでくれました。

 

夕食

 部屋の中央にあったテーブルを横にずらし、畳の上にお膳を置いてくれました。

 

 

 生ビールは別注文。700円。

 

 イワナの塩焼きが出てきました。

 

 木のしゃもじ入れがありました。水が少し入っていて。初めて見ましたよ。

 

 デザートです。地元で採れた山菜を使った天ぷらが食事の途中に出てきましたが、おいしそうなのですぐ食べてしまい、写真撮影を忘れましたわ。

 

 

朝食

 

 

 温泉卵。

 食後、お膳を下げてもらった時に、コーヒーが出ましたが、毎朝3杯飲む習性がある私はうれしさのあまり、撮影を忘れて飲み干してしまいました。

 

 

 

 

ひなびた「湯檜曽温泉」の由来

 湯檜曽温泉街の図(道路わきにあった看板を撮影)

 

 

 湯檜曽温泉は、利根川の支流の「湯檜曽川」沿いにある温泉地です。

 

 この温泉地が見つかった時期やようすは、史料が乏しいようではっきり分かりません。ただ、『利根郡村誌』はじめ代々伝えられていることを丸くまとめると、こうなります。

 

平安時代の末期に、のちに鎌倉幕府を開いた源氏に滅ぼされた陸奥国(むつのくに=現在の東北地方)の豪族の安倍貞任(あべのさだとう)の子孫が群馬の山中に逃げ込み、その後160年間、尾瀬に住み着いて「尾瀬城」も築いた。しかし、室町時代になってから足利氏に居城の「尾瀬城」を攻められ、いまの湯檜曽に落ちのびてきた。その時、尾瀬城主だった安倍貞道の三男、安倍孫八郎が、川岸でこんこんとわく「湯」を発見。ここを「湯の潜む村」と名付けて隠れ住んだ。「湯の潜む村」は時の経過とともに「ゆのひそ村」、さらには「ゆびそ」になった・・・。】

 

 小学館日本大百科全書(ニッポニカ)には、「陸奥(むつ)の豪族安倍貞任の子孫がこの地にきて発見したと伝えられる。」とあります。

 

 また、湯檜曽温泉の宿の1つ、「ホテル湯の陣」には、浴室に次のように書かれていました。(写真)

 (2022年10月14日撮影)

 

 まあ、何がホントかは分かりませんが、❝お話❞にはなりますね。

 

 

 

 

いま温泉街は・・・

 湯檜曽温泉街にはいま、6軒、ホテル・旅館があります。

「林屋旅館」のはか、「ホテル湯の陣」「なかや旅館」「紫明館」「永楽荘」「湯檜曽の宿 あべ」。

 

 

 林屋旅館の道路反対側には、築51年のホテル「本家旅館」廃墟となって放置されています。

 昔はふつうの旅館業で、谷川岳の登山やスキー客が泊まっていましたが、その後、団体客を当て込んで1972年に鉄筋8階建ての大型ホテル(写真)を建てました。しかし、1991年のバブル崩壊で客が減り、ついに廃業。建物だけがいまだに残っている、という話でした。

 

 

 

  ひなびた温泉街ですが、ゆったり湯につかり、静かにひと時を過ごしたいという方には、おすすめの宿の1つですよ。

 

 

www.shifukunohitotoki.net

 

 

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