青森県の浅虫(あさむし)温泉に2023年4月13日、泊まりました。「棟方志功ゆかりの宿」というまくら言葉が付いている「椿館(つばきかん)」です。
ここを選んだわけは「棟方志功」などという高尚な方とは無縁で、①宿泊翌日に花見に行く「弘前公園」からそんなに離れていないこと②お湯が自家源泉でかけ流しということ③1泊2食付きの宿泊費が比較的安いこと――という条件を、なんとか満たしていたからなんです。
「椿館」の湯には満足しました。でも、浅虫温泉街には活気が全くないのです。
「椿館」をはじめホテル・旅館が経営危機の真っただ中にあることを知ったのは、帰宅後でした。
現地をチラッとみただけですが、実情を記録しておきます。
目次
浅虫温泉の位置
浅虫温泉は、青森県青森市にある温泉地。ホテル・旅館・民宿が合わせて10軒あります。
青森駅から「青い森鉄道」のワンマン列車(2両編成)のおよそ30分間乗って、「浅虫温泉」駅で降りました。
「青い森鉄道」の路線は、もともとはJR東北本線の線路でした。
東北新幹線の「新青森―盛岡」間の開業に先立って、政府・与党が「第二の国鉄を作らない」という立場から、「東北本線」の「青森―盛岡」間をJRの経営から切り捨てた、というと反論があるかもしれませんが、切り離したのですね。
JRの仲間ではなくなった東北本線「青森―盛岡」間のうち、青森県内の路線を運営しているのが第三セクターの「青い森鉄道」と「青森県」なんです。
厳密には、「車両」を「青い森鉄道」が保有して乗客の輸送をし、鉄道のレールとホーム、駅舎といった設備は「青森県」が保守・管理しています。青い森鉄道は県に、線路使用料を支払っているのだそうです。
「椿館」の自家源泉掛け流しに満足!
泊まった「椿館」は、青森市生まれで東京・荻窪に住んでいた版画家・棟方志功(むなかたしこう)が、毎年夏に来て1、2ヶ月間静養した宿。
湯につかりながら書や油絵を描いていたそうです。
宿には作品がたくさん残されていて、展示されていました。
「椿館」の大浴場(男性用)
旅行した時に、宿泊先に期待したいのは、お風呂とその土地の料理ですよね。
椿館の大浴場は広くて、浴槽から湯があふれ出る光景を久しぶりに見ました。気持ちがいいです。
大浴場の外にある露天風呂にも入ってみました。
石の風呂の横に、椿の木が植えられていました。枝から落ちた椿の花が、排水口というのか、お湯が排出される口をふさぎかけていました。
落ちた椿の花をしばらく掃除しないで、そのままにしておくというのも風情があっていいもんですな。
「椿館」の「源泉」の分析
「椿館」の「温泉分析書」(2021年6月14日付・青森県薬剤師会)をみました。
【泉質】は、「ナトリウム・カルシウム――硫酸塩・塩化物泉」(低張性弱アルカリ性高温泉)
【源泉名】は、敷地内にある「椿の湯」(13号泉、15号泉、16号泉、17号泉、18号泉、19号泉、23号泉の混合泉)(再分析)
【泉温】は、採取地で59.5℃
【湧出量】は、測定不能(動力揚湯)
【pH値』は、8.46
【成分】は、ナトリウムイオン、カルシウムイオン、硫酸イオン、塩化物イオンが比較的大きな数値
400年前に「椿館」の源泉を役人が見て帳簿に記録
「椿館」の大浴場入り口の額縁に、「椿の湯由来」が以下のように書かれていました。
江戸時代の貞享(じょうきょう)元年(1684年)から数年間、津軽藩では新田開発を進めると同時に、「石高」を正確に把握するために、「検地」という田畑の測量を行いました。
その時、役人が「椿館」の基となる温泉を見つけたというのです。
◆ ◆ ◆
昔、658年(文化2年)、阿部比羅夫が蝦夷征伐を行ったころ、この浅虫温泉は小さな寒村で、人の往来もまれな土地でした。
1100年(嘉保5年)当館の先祖がここ浅虫に移り住み、湧き出る自然そのままに、湯元である源泉の保護管理に努めておりました。
1190年(建久元年)円光大師(法然上人)が東北巡教の際、浅虫のお湯の効用を村人に教えたのが浅虫での温泉入浴の始まりでした。
当館にわく温泉は眼病に効くので「目の湯」といわれていましたが、1673年(延宝元年)将軍家綱が行った分地制限令により、当地津軽(藩)でも(貞享元年から)土地測量が実施されました。これが歴史に残る「貞享新検」である。
この時(貞享4年=1687年)、椿の木の間から湧き出るお湯を見て、役人が「椿の湯」と新検帳に記録したのが公称された初めである。
そして初代伊右衛門が湯治場と湯小屋を建築し、名湯「椿の湯」として近隣の皆様に愛され、現在に至りました。
その間、明治9年7月14日、明治大帝の東北行幸に際し、当館は御休憩所として御入浴の光栄に浴しました。
御入浴あそばされた大帝におかれましては、おそれ多くも「眼がスッキリした」とのお言葉を賜ったのをはじめ、数多くの軍人、武将、歌人、芸術家の方々に「椿の湯」を愛し、利用いただきました。
青森の生んだ「世界の芸術家・棟方志功」が眼の治療と芸術の極致を追求するため、先代伊右衛門が提供した湯池室に、昭和10年から約30年間暮らし、椿館のアトリエから世界へと大きく飛び立って行きました。
本日は県内で一番古く、由緒ある「椿の湯」で心行くまでゆっくりおくつろぎくださいますようお願い申し上げます。
椿の湯18代当主 伊右衛門 謹言
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「椿館」の料理
写真は、夕食です。
まずまずの味でした。特に美味しいわけではありませんが(失礼!)、メニューは豊富。黄色いタクワン以外、すべていただきました。
朝食。
目を引いたのは、朝食の時に出た「貝焼き味噌(かいやきみそ)」という津軽地方につたわるという郷土料理。
「貝焼き味噌」。
津軽地方は昔から「ほたて」の産地。陸奥湾で採れた「ほたて」の貝殻を鍋の代わりにして、貝殻の中に少量の水とカツオ節、海藻、ネギを入れ、煮立ったところで「味噌」をお好みの量だけ入れる。さらに、溶いた卵を入れてかき回す・・・。
残念ながら、「ほたて」は見ませんでした。
これを白いご飯にかけていただきました。
初めて楽しむ調理方法でした。
浅虫温泉の街の様子
「浅虫温泉駅」の駅舎。改札口の横に売店がありまして、そこで青森県の地元新聞「東奥日報(とうおうにっぽう)」を14日朝、買いました。
駅前や街に、みやげ物店はありませんでした。(「道の駅」は見えましたが)。
住民の方は、青森市の生協が運行する「買い物バス」に乗って、少し離れたところにあるスーパーに日常の買い物に行くという話を聞きましたが・・・。
青森市立浅虫小学校は10年前「廃校」に
宿の周辺を泊った翌朝(14日)、下駄ばきで散策していますと、桜がきれいな場所があったんです。
学校でした。
「青森市立浅虫小学校」という表札が、門柱にありました。でも、廃校になっていました。
10年も前の、2013年3月に廃校になっていました。隣の地区の小学校に統合されたのです。
明治11年(1878年)創立の学校でしたが、校舎の老朽化が進んでいたうえ、2つの学年の児童が同じ1つの学級になって授業を受ける「複式学級」の解消が背景にあったようです。
校庭には、植えてから100年を超えるソメイヨシノの古木が数本ありました。
ただ、廃校になって以降も、毎年ここで、桜の「花見会」が地区の方によって開かれている、と宿で聞きました。
浅虫温泉、再生へ
浅虫温泉には、温泉の「源泉」が「8ヶ所」にあります。このうち「椿館」や「旅館柳の湯」など歴史のある「5ヶ所」は、自前で源泉を管理して、「自家源泉かけ流し」をウリにしています。
ほかの「3ヵ所」の源泉については、1966年(昭和41年)に設立された「浅虫温泉事業協同組合」が温泉をポンプでくみ上げて貯湯槽に入れて集中管理し、地域のホテル・旅館や一般家庭にパイプで温泉を供給しています。(参考;「浅虫地区の温泉熱利用可能性調査報告書」平成22年2月青森県)
ところが、1990年代初めのバブル景気崩壊以降、社員旅行など団体の宿泊客が激減。それに加えて2020年春から新型コロナウイルス感染症の感染拡大によって、客足が途絶え、宿泊施設の経営が相当厳しくなったようです。
官民ファンドが「椿館」など支援へ
政府と民間が共同出資する官民ファンドの㈱地域経済活性化支援機構が、浅虫温泉の支援に乗り出すと発表したのは、先日の2023年3月9日でした。
支援する対象は、①「椿館」「宿屋つばき」を経営する椿館②「南部屋・海扇閣」を経営する南部屋旅館③ホテル秋田屋――の3社。
3社はこの機構に「株式」を無償譲渡して議決権を手放す代わりに、機構から設備投資などに必要な融資を受けるほか、機構から経営管理に通じた人材を役員として派遣してもらえるようです。
「椿館」の場合は、広報資料によると、2億1500万円の融資を受けることになっています。
「温泉地」は日本全国、どこもかしこもさびれつつあるような印象を受けます。高齢者にはまだ魅力があるんですが、若い人を「温泉」だけでひきつけるのは難しいかも・・・・。