北穂高岳で味わう至福のひと時

標高3000㍍の北アルプスに登っていたころの写真記録、国内外の旅行、反戦平和への思いなどを備忘録として載せています。

「風船爆弾」は東京・蒲田でも女学生が製作していたという事実

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 陸軍登戸(のぼりと)研究所が開発した風船爆弾の10分の1の模型 

           (川崎市明治大学平和教育登戸研究所資料館で撮影)

 

目次

 

 

 

 新しい年を迎えました。お餅を食べ、テレビで箱根駅伝を楽しんだところです。ことしも平和が続いて欲しいですね。

 

 平和と言えば、隣の朝鮮半島ではたびたび、韓国の脱北者団体が南北の軍事境界線近くから北朝鮮に向けて、金正恩体制を批判する内容のビラを飛ばして北朝鮮側を激怒させています。

 そのビラまきに使っているのは風船なんですよね。

 

 風船を飛ばすなんて、子供じみているように思えますが、わがニッポンも、戦時中は風船に爆弾をぶら下げて、太平洋の向こうのアメリカ本土まで飛ばしたんですよね。

 マンガみたいな話ですが、ホントなんです。その歴史上の事実を調べてみました。

 

 

 

風船爆弾とは?

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 風船爆弾の構造図 (登戸研究所資料館で撮影)

 

 

 風船爆弾というのは、直径が10㍍もある大きな気球です。こんにゃくノリではり合わせた和紙で作った気球に、爆弾をつるして敵の基地などに落とす兵器です。気球の中には水素が詰められました。

 

 

 太平洋戦争末期の1944年11月秋から1万発近くアメリカに向けて飛ばし、1000発ほど本土に着弾したと推測されています。

 

 爆弾をつるす気球をつくったのは、10代半ばの旧制高等女学校の生徒でした。

 

 

 

だれの発想なの?

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 風船爆弾の模型 (登戸研究所資料館で撮影)

 

和紙で気球を製造した

 こんなもの、いったい誰が考案したんでしょうか。

 和紙問屋の老舗「小津商店」(東京・日本橋)が出した社史「小津330年のあゆみ」(昭和58年11月発行)に、風船爆弾がつくられる経緯について、つぎのように書かれています。 (長い引用ですが・・・・・)

 

 「太平洋戦争のさなかに日本軍が飛ばした秘密兵器『風船爆弾』の話は、奇抜なアイデアとして語られているが、あの風船爆弾の材料として使われた和紙の開発に、その着想の時点から小津商店が関与して目的の紙の完成に終始協力したことは、知る人がほとんどなく、風船爆弾の研究が昭和4年(1929年)にすでに始められていたことは公的な記録にも残されていない

 風船爆弾というのは、コンニャクノリで強化・加工した和紙で大きな気球をつくり、約1万㍍の高空に浮揚させ、偏西風に乗せてアメリカ大陸へ向けて飛ばし、かの地で爆発発火させて火災を起こさせる仕組みになっていた。昭和19年(1944年)秋から20年4月にかけて、約9000個が茨城や福島の海岸から秘密裏に発射(放球)された。

 『紙について相談したいことがある』という電話が、国産科学工業研究所というところから入ったのは昭和4年(1929年)であって、店員の1人が差し向けられた。国産科学工業研究所は目黒区の丘に囲まれた場所にあった。そこで風船爆弾の構想を打ち明けられ、秘密を守ること、第三者には気付かれず、しかも急げという要請を受けた。重要な要請だったので、店の幹部と担当者だけの秘密ごととし、作業が進められた。まず、店にある4、50種類の紙を片っ端から実験に供した。しかし、そのどれもが満足すべき結果が得られず、特別な手法を用いてすくよりほかはないと、小津の取引先である埼玉県小川町の紙屋(現地問屋)の協力を求め、その店の仕事をしている紙すき屋ですいてもらった。風船爆弾の気球用として要求される紙の質は高度なもので、楮(こうぞ)の生一本でつくる小川の和紙(細川紙)でも、すぐには要求通りの強度と密度の紙は得られなかった。しかし、紙すきを引き受けてくれた人たちの熱心な研究と努力で、約4ヵ月でほぼ満足できる紙の抄造にこぎつけることができた。紙すきを担当してくれたのは、産地紙問屋新井商店の仕事をしている久保さんという紙すき屋であった。

 風船爆弾用の紙は六尺(約200㌢)×二尺二寸(約73㌢)の紙に、別にすいた二尺二寸四方の紙を3枚並べてはり、ノリはコンニャクノリで20数回塗り重ねた。

 この風船爆弾用紙は、小津が納入した。その後、紙の統制が始まってからは、納入は組合に移譲された。また、手すきには生産量に限界があるところから機械すきへの転換が行われ、日本紙業の伊野工場などが機械すきの試作を担当し、約1年で量産体制ができあがっている。

 風船爆弾の研究を推進したのは近藤至誠(しじょう)氏であった。近藤氏は士官学校出身で、軍籍にあった当時から風船爆弾の構想を持っていたという。俊秀の人であったが、風船爆弾が正式兵器に制定される日を待たず病気のため世を去っている。

 風船爆弾研究の経緯や小津との関係について、小津の関係者も公の場では多くを語ろうとしなかったので、今日までこの部分は空白であった。しかし、『小津330年史』を編纂するにあたって、当時の担当者・岡村成三氏の新たな証言を得たこともあり、歴史的事実として記録にとどめることは有意義であるとの判断から、とくに記述した。」

 

 

 

考案した近藤至誠という男

 和紙問屋の老舗「小津商店」とのかかわりで出てくる近藤至誠という人物は、陸軍士官学校9期卒。

 陸軍少佐の時、デパートのアドバルーンをみて風船爆弾での空挺作戦を軍に提案。しかし、採用されなかったため、自ら研究することを決意し、軍籍を離脱。

 目黒区内で国産科学工業研究所を立ち上げて、民間人の立場から研究を始めました

 

 

 

関東軍」と近藤至誠のかかわり

 近藤の国産科学工業研究所は、和紙問屋「小津商店」経由で仕入れた和紙を使って、気球に仕立てたわけですが、昭和8年(1933年)ごろから関東軍の協力を得ながら、実用に向けて研究を重ねたようです。

 

 

 

 近藤は、気球を製造するには目黒では手狭になったため、昭和11年(1936年)ごろ、蒲田に移転して工場を構えました。

 

 国産科学工業研究所はのちに国産科学工業株式会社と名前を変えていますが、いつ名称変更したのかは、資料が残っていないため分かりません。

 近藤自身は昭和15年(1940年)7月6日に病気で亡くなっています

 

 

 

関東軍」が対ソ戦を想定して研究

 風船爆弾を最初に「実戦」で使おうとしたのは、関東軍でした。

 

 関東軍というのは日露戦争(1904年)のあと、中国東北部の「満州」というエリアに配備された陸軍の部隊です。

 関東軍は昭和6年(1931年)、自分で鉄道の線路を爆破しておきながら、これを中国軍の仕業だとして軍事行動を起こして満州全土を制圧、勝手に「満州国」をつくりました。これが満州事変です。

 

 関東軍は、ソ連黒竜江をはさんで向き合っていました。このため想定される対ソ戦では、気球を使って100キロ離れたウラジオストックに宣伝ビラをまいて、ソ連軍兵士の士気を低下させようと考えました。

 昭和10年(1935年)関東軍は、宣伝ビラをまく「兵器としての気球」を完成させたとされています。

 しかし、日中戦争さなかの昭和14年(1939年)のノモンハンで、関東軍の対ソ戦構想はくじけてしまい、それに伴って風船爆弾作戦も停止しました。

 (注)ノモンハン事件満州を占領して建国したカイライ国家・満州国とモンゴルとの国境の「ノモンハン」付近で、関東軍ソ連軍が衝突した事件。関東軍は大敗して停戦協定が結ばれた。以後、軍部は対ソ戦の開始に慎重になった。

 

 

 

 

蒲田にも風船製作工場があった

 国産科学工業研究所という名は、のちに【国産科学工業株式会社】となり、

当時の「蒲田区本蒲田4ー9」に国産科学工業株式会社蒲田工場があったことは記録に残っています。

 戦前の地図(上)を見ると、蒲田区本蒲田4-9」は、現在のスーパー「マルエツかまた店」あたりです。

 

 

陸軍登戸研究所が引き継ぐ

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 旧登戸研究所の第2科研究室の建物。現在は、「明治大学平和教育登戸研究所資料館」になっています。

 

 

 

太平洋横断の風船爆弾が浮上

 満州駐留の「関東軍」による気球実験は、いったん立ち消えになりましたが、太平洋戦争(1941年~1945年)の戦局悪化で再びクローズアップされたのです。

 

 昭和18年(1943年)7月陸軍省軍務局長が軍幹部に「なにか敵にアッと言わせる手はないものか」と奇抜な発想を求めたところ、上空の偏西風を利用した風船爆弾構想が降ってわいてきました。

 翌8月、陸軍は登戸研究所に対し、太平洋を横断して米国本土を直接攻撃できる兵器としての気球の「研究」を命じたのです。

登戸研究所は、日本陸軍が謀略・宣伝など「秘密戦」のための兵器の研究開発をしていた機関。現在、明治大学生田キャンパスになっています。

 

 

 登戸研究所は総力を挙げて「気球本体」「搭載する生物兵器」「材料の和紙」の研究開発に取り組み、昭和18年(1943年)11月射程1万キロ、直径10メートルの気球を完成させました。

 

 

気球は女学生の手で作られた!

 大田区発行の「大田区史 下巻」は、当時、蒲田区梅屋敷にあった私立大森高等女学校(のちに戸板学園に統合)の生徒の勤労動員に関して『戸板学園 八十周年記念誌』に、「国産科学へ行った生徒らは風船爆弾の製作に従事したという」という記述があることを紹介しています。

 

 具体的な証言記録が見つかりましたので、ここにアップしておきます。

 「長谷川律子」さんという方大田区発行「史誌33号」(平成2年)に「学徒勤労動員について」と題して風船爆弾」について次のように書いています。

 

 「昭和19年の新学年、梅屋敷にあった私立大森高等女学校(学校法人戸板学園)4年C組の生徒は、動員令によって蒲田駅(現JR)東口近くの工場に通いました。場所は新潟鉄工の手前で、近くに蒲田松竹があったという当時の記憶を話し合った結果、『国際化学研究所』という会社だったと思われます。(注:国産科学工業株式会社の間違い)。所内には憲兵隊員が大勢いて、注意事項の『当所内の仕事については、親兄弟姉妹といえども絶対に口外してはならない』という厳しいお達しとともに、異様な雰囲気に緊張させられました。(中略)。

 作業はコンニャク玉を使っての袋づくりですが、その使用目的はだれも知らされず、風船爆弾と教えられたのは相当あとのことです。作業内容は班別編成で数人ずつに分けられ、だれがどのような仕事かということは、さっぱりわかりません。ただ、コンニャク玉を使って糊付けするのは同じらしく、それを乾燥室で乾かす作業の時に、他の班の人を見かけましたが、どの部屋にも憲兵がいて、和語などはできません。(中略)。

 私の作業は長方形の袋づくりで寸法は判然とは思いだせませんが、縦70㌢、横50㌢ぐらいではなかったかと思います。その袋には砂を入れるのだといわれましたが、何のためかは教えてくれません。のちに伝わって来た話では、風船が気流に上手に乗れるように砂袋を重りとして付け、途中で砂は捨てるらしいということでした。

 風船の本体を扱っていた人たちはある日、それぞれ別に大型の車に乗せられ、外から施錠されたまま大きな建物の中に運ばれ、その中で風船を徐々にふくらませ、数人がその中に入り、空気漏れの個所はないか、外側の人と連絡を取り合いながら点検し、わずかなすき間もないように仕上げました。

 運ばれた場所は、有楽町の日劇(現マリオン)、浅草の国際劇場(現浅草ビューホテル)、両国の国技館でした。(中略)。

 私たちがこの工場に通ったのは2ヶ月足らずだったと思いますが、退所の日の所長あいさつで、「いつの日か、皆様のつくられた物が米本土にわたり・・・」と言った時、横にいた憲兵が突然、挨拶中止を叫んだことは、入所の日の注意事項とともに、なにかたいへんな物をつくったのだという記憶を強く残しておりました。」

 

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 和紙で気球をつくる女学生 (写真は、登戸資料館ガイドブックから引用)

 

 

 昭和18年(1943年)当時に書かれた気球の製造命令系統図によりますと、和紙を張り合わせてできた気球用紙は、兵器をつくる各地の陸軍造兵廠(ぞうへいしょう)や、陸軍の下請け会社である国産科学工業株式会社に送られ、気球が製造されました。

 

 風船爆弾の製造には、かなりの数の人手が必要で、登戸研究所が細かなマニュアルを作りました。

 和紙こんにゃくノリを塗って風船を作る手作業は女性の担当で、造兵廠や国産科学工業は、指定した工場や子会社に全国約100の高等女学校から生徒を動員し、気球製造に当たらせました。

 

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 (上の写真は、登戸資料館館報第4号から引用)

 

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 (同上)

 

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 (同上)

 

 

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 上の写真は、完成した気球を膨らませて、中の水素が漏れていないかどうか確認する作業。(登戸資料館ガイドブックから引用)

 

 

 気球の検査を行うには、天井が高い施設が必要で、そのために東京では日劇東京宝塚劇場浅草国際劇場両国国技館、大阪では映画館など大きな建物が軍に接収されたといいます。

 

 昭和19年(1944年)初め、試作した気球約200発を千葉県の海岸で爆弾を付けて打ち上げる実験をしました。その結果、打ち上げるのにふさわしい場所として、現在の千葉県一宮町茨城県北茨城市大津町の五浦海岸福島県いわき市南東部の3ヵ所を決めました。

 

 

 

実際に使ったの? 成果は?

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 北茨城市風船爆弾発射場所 (登戸研究所資料館ガイドブックから引用)

 

 

 昭和19年(1944年)11月から翌年4月まで、日本の3ヵ所から風船爆弾

9300発、放たれました。

 風船爆弾は上空1万メートルまで上がって、ジェット気流という新幹線並みの猛烈な西風に乗って、8000キロ太平洋を横断してアメリカ大陸に飛んでいきます。

 

 アメリカで着弾が確認されたのは361発とされています。

 しかし、山岳地帯にも落下しているうえ、自爆装置が作動したケースも考えられるため、全体の1割の約1000発がアメリカ本土に到達したと推測されています。

 

 実際に風船にぶら下げたのは、総重量35キロまでの爆弾焼夷弾生物兵器の使用については、米軍がもし太平洋戦線で「毒ガス」をしようしたら日本兵はとんでもないことになると考え、米軍からの警告もあって取りやめています。

 

 アメリカでどの程度被害があったのか、きちんとした調査はできていないようですが、オレゴン州では6人が亡くなっています。

 

 兵器としての風船爆弾の評価はどうでしょうか。

風船爆弾は破壊力が弱いばかりか、命中精度も低く、材料の和紙にも生産能力に限界があります。

 なによりも上空の偏西風は、春になると流れが変わってしまうので、風船が米国本土にまで飛ばないのです。兵器としての評価は低いのではないでしょうか。

 

 軍部は昭和20年(1945年)の春、風船爆弾の製造中止を決めました。

 終戦の日の8月15日、国産科学工業株式会社の総務部長だった内藤要という人物は、会社関係の書類をすべて焼却処分したといいます。

 

 

 

 

【主な参考資料】

「館報 第1号 2015年度」(明治大学平和教育登戸研究所資料館)

「館報 第4号 2018年度」(同上)

大田区史 下巻」(東京都大田区発行)

風船爆弾製造と蒲田」(東京都立蒲田高校歴史研究会会報 2003年度)