坂本龍馬。(国立国会図書館HP『近代日本人の肖像』がら引用)
目次
- おいたち:高知の下級武士の末っ子
- 地元の道場で剣術を学ぶ
- 19歳の時に剣術修行で江戸へ
- 千葉定吉道場跡
- ペリーの黒船来航で「攘夷」に
- 再び、ペリー来航
- 竜馬、土佐へ
- 絵師・河田小龍に出会い世界を知る
- 2度目の江戸修行
坂本龍馬は、日本の歴史でとても人気のある幕末を生きた武士です。大河ドラマや司馬遼太郎の歴史小説「竜馬がゆく」の影響でしょうか。
龍馬がやったことですごいと思うのは、ペリーの黒船がやってきて、世の中が激しく動いていた江戸時代末期に、敵対関係にあった薩摩藩(今の鹿児島県)と長州藩(山口県)をくっつける薩長同盟を実現させたことでしょうか。これが引き金になって265年間も続いた徳川幕府がつぶれました。
龍馬の折衝力や広い交友関係には、ほれぼれします。剣豪ですしね。
その龍馬は、東京にも足跡を残しています。ちょっとたどってみました。
おいたち:高知の下級武士の末っ子
龍馬は1835年(天保6年)11月15日、土佐藩(現在の高知県)の下級武士の家で、5人きょうだいの末っ子に生まれました。3つ年上の乙女という名前のお姉さんは気丈で龍馬と仲が良く、龍馬は乙女に手紙をたくさん書きました。その手紙が龍馬の活動を調べるうえで大切な史料になっているようです。
地元の道場で剣術を学ぶ
14歳になると、日根野(ひねの)弁治という武士が近所で開いていた剣術道場に通い、どんどん腕を上げて19歳の時、日根野から小栗流和平兵法事目録という免状を伝授されました。これは京都国立博物館で保管されているとのことです。
19歳の時に剣術修行で江戸へ
ここからが江戸での話です。
写真は、東京国際フォーラム(千代田区丸の内3-5)というイベント施設。
龍馬が❝戸籍❞を置いていた土佐藩の「上屋敷(かみやしき)」は、ここにありました。
龍馬は1853年(嘉永6年)3月、19歳の時に藩に願い出て、剣術修行のために江戸に向かいました。いま風の留学ですね。
上の古い図面の「松平土佐守」と書かれている場所が、土佐藩上屋敷です。鍛冶橋(かじばし)御門内の大名小路にありました。
図面の右下が「鍛冶橋」。現在は名前だけ残って信号交差点になっています。
龍馬は江戸に着くと、鍛冶橋近くにあった上屋敷に、江戸に来たという届け出をしています。
※上屋敷=江戸時代には参勤交代という制度があって、諸大名は江戸と国元を1年ごとに移り住むことが義務付けられて、奥方と若君は人質として江戸に住む必要がありました。
大名が江戸で住む屋敷は「江戸藩邸」とか「江戸屋敷」と呼ばれ、幕府から屋敷の用地を与えられました。
江戸藩邸は、屋敷の使いみちや江戸城からの距離によって、「上屋敷」「中屋敷(なかやしき)」「下屋敷(しもやしき)」に区別されていました。
上屋敷は、藩主とその妻子が暮らすところ。敷地内には、江戸詰めの位が高い藩士が暮らす長屋のほか武道場などがありました。
写真は、中央区役所(中央区築地1-1)。右は警視庁築地署。土佐藩の「中屋敷」があった場所です。
龍馬はこの中屋敷に寄宿し、北辰一刀流の千葉定吉道場に入門しました。
中央区役所の駐輪場の端に、説明板があります。
※中屋敷=上屋敷の控えの屋敷です。上屋敷が火災など非常時の時に使う予備の屋敷。上屋敷が手狭な場合に藩主の家族を住まわせた藩もあったようです。
土佐藩は1826年(文久9年)3月、幕府から木挽町築地の土地2015坪を与えられ、中屋敷としました。同年中に隣の土地を手に入れて、敷地面積を4076坪に広げました。現在の中央区築地1丁目1から6番地、同2丁目1・6・7・8・9番地を包み込む広さで、中央区役所も築地警察署も中屋敷の跡地内にあります。【中央区立京橋図書館郷土室だより(1979年3月発行)から引用】
千葉定吉道場跡
写真は、東京駅に近い福岡銀行東京支店前(中央区八重洲2丁目、京橋1丁目付近)。千葉定吉(さだきち)道場があったところです。
龍馬が入門した北辰一刀流のこの道場は、当時「京橋桶町」にありました。
千葉定吉は、千葉周作という江戸3大剣客の1人の弟。道場は「小千葉」と呼ばれていました。
ペリーの黒船来航で「攘夷」に
「鎖国」をしていた日本に「開国」を求めてやってきた米軍人ペリー。(ウィキペディアから引用)
龍馬が剣術修行のため江戸に暮らし始めてしばらくすると、たいへんなことが起こりました。
1863年(嘉永6年)6月、米海軍東インド艦隊司令長官のペリーが率いる軍艦4隻が江戸湾入り口の浦賀(神奈川県横須賀市)に来航、「鎖国」をしていた日本に「開国」を迫ったのです。
あとで分かった来航の目的は、当時の清(中国)との貿易や日本近海での捕鯨の時に、捕鯨船の燃料や食料の補給・乗組員の休養のための寄港地にするためでした。
驚いた幕府は、諸藩に沿岸警備を命じました。
土佐藩は、品川に下屋敷があり、藩士は藩邸に近い海岸に張り付きました。
この時、私費で剣術を勉学中の龍馬も、警備に動員されたのです。
龍馬は1853年9月23日付の父にあてた手紙に、次のように書いています。
「異国船ところどころに来たり候へば、いくさも近きうちと存じ奉り候、その節は、異国の首を討ちとり帰国つかまつるべく候。」
攘夷に燃えていたようです。
土佐藩下屋敷があった場所。現在の品川区立浜川中学校あたり。中学校の第一京浜国道沿いの校庭に、説明板があります。
ねずみ色の枠内が下屋敷の敷地。広いです。
※下屋敷=国元からの荷を揚げ、保管した場所です。品川など江戸から離れた郊外の水辺に造られました。参勤交代で藩主に従って江戸に詰める藩士も、この下屋敷や中屋敷の長屋に住みました。
土佐藩の下屋敷は、現在の品川区東大井3丁目から2丁目にかけた1万6891坪の広大な敷地。
藩主・山内豊信(とよしげ)が安政の大獄(1858年)の余波を受けて、幕府から謹慎を命じられ、容堂(ようどう)と名を変えて蟄居した屋敷でもあります。
浜川砲台ができる
復元された浜川砲台の大砲。現在の都下水道局浜川ポンプ所近くの新浜川公園に展示されています。全長3㍍、車輪の直径1.8㍍。
ペリーが「来春、また来る」と予告していったん去ったあとの1853年末、幕府は江戸湾の沿岸に「砲台」を造るよう諸藩に命じました。
土佐藩は、品川下屋敷から東海道をはさんで200㍍ほど先の江戸湾に面したところに、「浜川屋敷」と呼んでいた「抱屋敷(かかえやしき)」を持っていました。このため抱屋敷の沖を埋めて浜川砲台を築き、8門の大砲を据えました。
※抱屋敷=大名が自費で、農民から購入した土地に建てた屋敷のことです。土佐藩はここを四国から送られてくる物資を陸揚げしていました。
再び、ペリー来航
ペリーは1854年2月、再び米艦隊を率いて江戸湾に来航。土佐藩は江戸湾の守りに就きました。
龍馬も3月、築地の中屋敷から品川の下屋敷に住居を移され、浜川砲台に詰めたと伝えられています。
龍馬のブロンズ像
龍馬像。コロナ禍という時節柄、マスクをしています!?
浜川砲台の近くの北浜川児童遊園(東品川2-25)には、地元のロータリークラブが中心になって出資して建てた像があります。
20歳の龍馬像です。
竜馬、土佐へ
いったん危機は収まり、龍馬は1854年の夏、土佐に帰国します。
龍馬自身は品川にいたために浦賀の黒船そのものを見てはいないと思われます。が、黒船来航にショックを受けて、ここから世界や政治に目を向け始めたようです。
絵師・河田小龍に出会い世界を知る
龍馬が1年の江戸遊学を終えて土佐の坂本家に帰ったのは6月23日でした。
故郷に戻った龍馬は、アポなしで絵師の河田小龍(かわだしょうりょう)を訪ねます。黒船来航に衝撃を受けて、世界について知識を得ようと思ったようです。
河田は、ジョン万次郎という土佐の漁師から米国の事情を聴き取って藩に報告書を出していた人物です。
ジョン万次郎というのは、漁に出ていた時に遭難し、漂流ののち米国の捕鯨船に助けられてアメリカ本土で教育を受けた漁師。河田は彼が帰国した時に藩の命令で事情聴取をしていたのです。
龍馬は河田から、世界と対等につき合うためには、日本に大きな船とそれを操る人材が必要だということを教えられました。
龍馬は河田との出会いで世界に目が広がり、のちの龍馬の生き方に刺激となったようです。
2度目の江戸修行
龍馬は1856年(安政3年)8月、剣術修行を続けるとして再び江戸にたち、2年後に土佐に帰国しています。その間、江戸の築地中屋敷では武市半平太と起居を共にしていたとされています。半平太も剣術の修行で江戸にいたのです。
江戸滞在中の1857年(安政4年)3月1日、鍛冶橋の土佐藩上屋敷で、藩主・山内豊信が出席して剣術大会が開かれ、土佐藩の龍馬と長州藩の天才剣士・桂小五郎(のちに木戸孝允と改名)が対戦したことを示す資料があります。(上の写真、共同通信配信)
縦16㌢、横1㍍の和紙に、縦書きで「安政四三月朔日 松平土佐守様上屋敷二而御覧」と記載。桂小五郎と龍馬が対戦して、桂が5本中3本とって勝ったことが記されています。
この史料は、前橋市の群馬県立文書館に保管されているとのことです。