米兵向け慰安所第1号のあった東京・大森海岸の跡地
1945年(昭和20年)8月15日に太平洋戦争が終わって、負けた日本は連合国軍に占領されました。上陸してきた占領軍の大部分は米軍でしたが、驚くことに日本政府が「慰安所」という売春施設を米兵向けに秘密のうちに用意したのです。
その最初の施設が東京都品川区の京浜急行「大森海岸」駅前にあった、ということを最近知りました。
しかし、日本政府はいまだに関与を認めないんですね。「資料の引継ぎがない」とか「コメントする立場にない」とか言って。
「戦後ゼロ年」という日本史の暗部にスポットを当てました。
目次
- 政府(内務省)が米兵相手の売春施設を開設するよう指示
- RAAの業務は「性の防波堤」
- 東京・大森海岸での売春の実態
- 慰安所の「女中」の生々しい証言
- 売春施設のその後
- 料亭「悟空林」の火事
- 日本政府のずるがしこい見解
- ★参考資料
(右上が「京急・大森海岸駅」。第一京浜国道の向こうにある「しながわ水族館」との間に慰安所が並んでいました)
政府(内務省)が米兵相手の売春施設を開設するよう指示
(労働省婦人少年局作成の「売春に関する資料 改訂版」から引用)
終戦の玉音放送からわずか3日後の1945年8月18日、いまの警察庁の長官に相当する「内務省警保局長」の名前で、警視庁と府県長官(=知事)あてに「外国軍駐屯地における慰安施設について」と題する通牒が無線で発せられました。
その内容は、労働省婦人少年局が10年後の1955年10月25日に発行した「売春に関する資料―改訂版ー」などによって外部に出ました。それによると――。
①警察署長は一定の区域に限定して占領軍のための「性的慰安施設」「飲食施設」「娯楽場」を設け、その営業を許可すること。
②警察署長は「性的慰安施設」などの営業については積極的に指導を行い、設備の急速充実を図ること。
③営業に必要な婦女子は芸妓、公私娼妓、女給、酌婦、常習密売淫(ばいいん)犯者などを優先すること――などです。
これは政府の1機関である「内務省警保局」の独断で指示できることではありません。天皇の玉音放送から2日後の1945年8月17日に東久邇宮稔彦内閣が発足しましたが、国務大臣に就任した元首相・近衛文麿が指示したといわれているのです。
警視庁警視総監の坂信弥(さかのぶよし)によると、近衛は内閣発足と同時に坂を首相官邸に呼びつけ、米兵相手の売春施設を都内につくるよう要請しました。
坂は当時の様子を旧内務省出身者の親睦団体の会報などで詳しく話しています。
坂の証言によりますと、近衛は坂に「この問題は、人に任せず、君が直接責任を持ってやっていただきたい」と強く言いました。
坂はその時、次のように思ったと言います。「長い間、女に接していない兵隊は、動物的要素を持っている。それなら猛獣はオリに入れて飼いならす必要がある。また、来たりくる客には十分に望みを達せさせ、満足させて帰すのが零語というものだ。」
RAAの業務は「性の防波堤」
都内では警視庁の主導で8月23日、飲食関係7団体の幹部が集まって「RAA特殊慰安施設協会」を設立し、銀座7丁目の中華料理屋「幸楽」に事務所を構えました。
「RAA」は「レクリエーション・アンド・アミューズメント・アソシエーション」の略。設立目的は、一般の日本人女性を占領軍から守るための「防波堤」として、占領軍兵士専用の売春施設を設けることでした。
「政府」が表に出ると都合が悪いので「民間」でやってもらいたい、というわけです。
求人広告。(「立教大学コミュニティ福祉研究所紀要第9号」から引用)
慰安婦となる女性は、銀座のRAA事務所前に出された大きな看板や新聞広告で集められました。
1945年9月3日付の「毎日新聞」には、「急告 特別女子従業員募集」という広告が載っています。「衣食住および高級支給」などと書かれています。が、仕事の内容は書かれていません。(上の写真)
空襲で家を焼かれ、衣類がなくお金も食べ物もなく、肉親と別れ別れになった女性たちは、ワラをもすがる思いだったんでしょう。飛びつきました。弱みにつけ込まれました。
東京・大森海岸での売春の実態
慰安所となった料亭「小町園」の位置。図の左端。左下の「海岸駅」が現在の「京急・大森海岸駅」。(伊藤一也編「大森歴史散歩」から引用)
RAAが最初に開設した慰安所が、いまの京浜急行「大森海岸駅」(品川区南大井)から第1京浜国道をはさんで反対側にあった料亭「小町園(こまちえん)」でした。
小町園のオーナーは慰安所と聞いて貸すのを嫌がったようですが、警視庁があっせんしRAAが借り上げたようです。
GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)のマッカーサーが厚木海軍飛行場に降り立ったのは8月30日。その露払いをする先遣隊が沖縄から厚木に着いたのは、2日前の8月28日。その前日の8月27日に「小町園」が最初の慰安所として開設されたのです。
警視庁やRAAが「小町園」に白羽の矢を立てたのは、占領軍が神奈川県の厚木から首都東京に入るルート上に、この大きな料亭があったから、ということのようです。
慰安所の「女中」の生々しい証言
慰安所になった料亭「小町園」で女中をしていた「糸井しげ子」の証言が残っています。(「ドキュメント昭和二十年八月十五日増版版」から引用)
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「忘れもしません。終戦の年の昭和20年8月22日でした。ご主人が銀座の方へお出かけになって、帰っていらっしゃると間もなく、私たちのいる女中部屋の方へ。(中略)。ご主人は私たち20人ほどの女中を集めて、この小町園はお国のために日本の純潔な娘たちを守るために、米兵の慰安所として奉仕することになった。慰安婦たちは、ちゃんと用意してあり、あなた方女中には手をつけさせないようにするから安心して働いてくれるように訓示をなさいましたが、私たちはパンティを2枚はくやら、男もののズボンをはくやら、大騒ぎでした。」
「いよいよ明日の28日、厚木へ進駐軍の第一陣が乗り込むというその前日になって、お店の前に2台のトラックが止まり、そこから若い女の人ばかり30人ばかりが降りて、中へゾロゾロ入ってきました。」
「リーダーみたいな男の人がRAAの腕章をしているので、その女の人たちが進駐軍の人身御供になる女だとすぐわかり、私たちは集まって、いたましそうにその人たちをみやりました。」
「モンペをはいている人もいますし、防空服みたいなものをつけている人もいます。ほとんどだれもお化粧をしていないので、色っぽさなど感じられませんが、しかしなんといっても若い年頃の人たちばかりですから、一種の甘いにおいのようなものが漂っていました。この人たちはみんな、素人の人でした。」
「前に、ちゃんとした官庁に勤めていたタイピスト、軍人のお嬢さん、まだ復員してこない軍人さんの奥さん、家を焼かれた徴用の女学生など前歴はさまざまで、衣服、食糧、住宅など貸与の好条件に飛びついてきた人たちでした。」
(中略)
「8月28日、厚木進駐。お店の前に自動車が止まり、5人の兵隊が入ってきました。」
(中略)
「翌日は昼間からうわさを聞いて続々とやってきました。土足でズカズカと上がり込み、用のない部屋に上がり込んだり女中や事務員まで追い回したりします。10日ほどたったとき、その騒ぎはどうしようもなくなりました。ジープが前の広場に10台も20台も止まっていて、あとからあとから兵隊たちはやってきました。はじめにやってきた30人の女のうち、2人は最初の晩にどこかへ逃げて行って、残った娘さんたちがお客を迎えたのですけど、部屋が足りないので広間を屏風で仕切って、そこに床を敷きました。」
「1人の男が中に入ると、あとの列が1つずつ前へ進みます。まるで配給の順番ふぇも待っているようです。その列が廊下にあふれ、玄関に延び、時には表の通りまで続くときがありました。」
「みんな素人の娘さんたちなのです。初めての日に一晩に1人の男の相手をするだけでも心がつぶれるほどのことだったでしょうに。毎日、昼となく夜となく1日に最低15人からの、しかも戦場からきた男の人を相手にしなくてはならないのです。」
(中略)
「1日に、60人のお客をとったという女が現われたのもそのころの話です。でもその人はもうそれっきりで立てなくなって病院へ送られましたが、すぐ死にました。精根を使い果たしたのだと思います。」
「女たちは短期の消耗品みたいのものでしたけど、それでも使いものにならなくなれば困ります。ご主人は銀座のRAAに応援を求めました。RAAは、今度は新宿や吉原から集めた玄人の女を補充に30人ほど、こっちへ送り込んできました。」
「始めに来た30人の女の人は、その2、3ヵ月の間に病気になったり気が違ったりして、半分ほどになっていました。しかし、その半分の人も、現在ではきっとひとりもこの世の中に残っていないと思います。それほどひどかったのです。まったく消耗品という言葉が当てはまる人たちでした。とても人間だったらできないだろうと思われることを、若い何も知らない娘さんたちがやったのです。そして、ボロ布のようになって死んでいったのです。あの人たちは、ただ、食べるためにしんだのです。」
「そうこうしているうちに、ほうぼうに同じ施設ができました。お店の近くにも、『やなぎ』『楽々』『悟空林』と続いて開業しましたので、うちへ来る客も自然少なくなり、いっときの地獄のような騒ぎを収まりました。」
「若いお嬢さん風の女の人が玄関に入って来て、ご主人に『働かせてください』と頼むことがありました。理由を聞いてみると、路で米兵に強姦されて家へ帰れないから、というのでした。そうして自分から米兵にこびを売る女になっていく人も何人かありました。いま思うと、こうしてあのころ、東京じゅうに『パンパン』なるものが生まれつつあったのですね。」
「私はそれから何ヵ月かたって、とうとう米兵の1人に犯され、お店を辞めましたけれど、あのころの小町園を思い出すと悪夢のように思われます。」
売春施設のその後
全国各地に開設された慰安所という売春施設で「性病」が広がりました。
また、慰安所に集まる米兵の写真が米国の新聞に載り、米兵の母親や奥さま方の反発を産みました。
写真は、神奈川県横須賀市に開設されていた慰安所「安浦ハウス」の前に集まるアメリカの水兵たち。撮影日不明。(2007年4月28日の米NBCニュースから引用)
GHQは1946年3月、慰安所への立ち入りを米兵に禁止しました。
慰安所の開設から7ヵ月で、「小町園」をはじめとする全国の慰安所は廃業になったのです。
慰安所はその後どうなったのか。もとの料亭に戻ったのでしょうか。
料亭「悟空林」の火事
昭和44年12月1日付「毎日」朝刊第2社会面。『大井の料亭「悟空林」焼ける』という見出しのベタ記事。
「慰安所」がその後注目されたのは、24年後でした。 料亭「小町園」の隣にある料亭「悟空林」から火が出たのです。昭和44年(1969年)12月10日です。
出火元は、畳110畳敷きという2階大広間。午後6時30分からの宴会に備えて大型のガスストーブを3つ使っていましたが、午後5時50分ごろ大音響とともに燃え広がって2階建ての建物3棟を全焼しました。客と従業員が150人ほどいましたがけが人はなかったとのこと。
この火事を境に、大森海岸から料亭が次々と姿を消していきました。
「小町園」や「悟空林」「やなぎ」「楽々」など料亭の跡地には、昭和53年(1978年)ごろから地上14階建ての大規模マンションが次々と建ちました。
いま、往時の面影はありません。
日本政府のずるがしこい見解
政府と警察が飲食関係団体を指導して、米兵向けに女性を提供するための慰安所を設けさせたことについて、国会で質疑が行われたことがあります。
平成8年(1996年)11月26日の参院決算委員会。質問者は吉川春子議員(共産党)です。
以下、議事録からの主なやり取りの抜粋。
▼(吉川春子議員)
警察庁あるいは内政審議室に伺いますが、(中略)米占領軍進駐の1週間後の昭和20年9月4日付で発せられた、内務省保安課長から警視庁特高部長、大阪府治安部長あてなどの「米兵ノ不法行為対策資料ニ関する件」について、この資料を知っていますね。慰安所の設置についてどう書いてありますか。(中略)警察庁、そこに米兵慰安所の設置について書いてありますね。ちょっとその部分だけ、1行でいいですから読んでください。
今、先生ご指摘の文書につきましては、当庁においては保管いたしておりませんので、お答えいたしかねるところでございます。
▼(吉川議員)
敗戦のわずか3日後、昭和20年8月18日に発せられた外国軍駐屯地における慰安施設に関する内務省警保局長通達、この内容を読んでください。
▼(山本審議官)
ただいまご指摘になりました文書につきましても、ご指摘があり調査いたしましたが、警察庁におきましては保管をされていないものと考えておりますが、引き続き調査を行っているところでございます。
▼(吉川議員)
もう2週間以上探しているんですよね。土、日も出て探しているということですが、これはなくしたんですか。
▼(山本審議官)
鋭意探しておるところでございますが、発見には至っておりません。これは戦後、内務省が解体され、警察制度が根本的に改革されましたうえ、新たに警察庁が設置されたものでありまして、これらの経緯からいたしまして、ご指摘の文書につきましては、公式に引き継ぎがなされておらないことによるものと思われます。
(中略)
▼(吉川議員)
私がうかがいたいのは、その通達に基づいて各県警が米兵に対する慰安施設を設置し、いろいろなことをやっているわけですね。そういう事実があるかどうか、ちょっと確かめてもらいたいというふうにお願いしておきましたけれども、どうでしたか、警察庁。
▼(山本審議官)
先生のご指摘は、各県の警察史の中にそのような記述がある、ということかと存じますが、各県の警察史のそれぞれにつきまして私ども承知はしているところでございますが、各県警がそれぞれ独自に作成したものでありまして、警察庁としては何らの関与も行っておらないところでございます。したがいまして、これらの内容につきましてはコメントする立場にないと、こういうふうに考えておるところでございます。
▼(吉川議員)
私、各県の警察の歴史を、これいくつか、重いですからその一部を持ってきております。(中略)。現場の警察官の声も紹介しておきます。これは「広島県警察百年史」に書いてあります。414ページにこういう記述があります。『連合軍の本土進駐にあたり、国民が最も心配したのは、婦女子が乱暴されるのではないか、ということであった。閣議においても種々論議が重ねられ、8月18日には警保局長から全国警察部長あてに、占領軍に対する性的慰安施設の急速な設営を実施すべき旨、指令した。まことに残念なことであるが、占領軍人に対する性的慰安施設を設営するという、いわば幇間(ほうかん)まがいの仕事を警察がせねばならなかったのである。当時の警察官の苦衷、屈辱感まことに察するに余りがある。警察署保管の旧娼妓(しょうぎ)名簿から前職者らの住所、氏名を調査し、彼女らの住む山村あるいは漁村に向かって面接勧誘するとか、あるいは現役の娼妓、芸妓、酌婦、密売淫犯者など、かつては取り締まり対象者であった彼女らに対して、外人相手の復職を頼んで回るとかしたもので、このようにつらい思いで勧誘した要員500人を、ようやく9月末日までにはそれぞれの場所に送り込むことを得、米軍主力部隊が到着した10月7日を期して営業が開始される運びとなった。』こういうことについて、一切知らない、通達もなくした、こういうことであなたは責任逃れできると思いますか。
▼(山本審議官)
広島県警の警察史にそのような記述があることは承知いたしているところでございますが、先ほども申し上げましたように、戦後、内務省は解体されまして、警察制度が根本的に改革され、新たに警察庁が設置されたものでありまして、警察庁といたしましてはお答えする立場にないものと考えております。
▼(吉川議員)
官房長官にお伺いしたいんですけれども、いってみれば日本の恥ずかしい部分ですね、白日の下にさらしたくない部分です。しかし、やっぱりこういうことも明らかにして、いま、これはよくなかった、こういうことをやったのは正しくなかったと、そういう反省すべき時に来ていると思いますけれども、官房長官、このてんについてはいかが感想をお持ちでしょうか。
残念ながら、いままでそういう記述や話を伺う機会がございませんでした。委員の言うことが全部であるか一部であるか、それは私は定かにできませんが、(中略)残念ながら定かにする手段、方法をいま私は持っておりません。私なりに勉強してみたいと思います。
(以下略)
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それにしても、「文書が見つからない」「コメントする立場にない」などと言葉巧みに逃げまくる高級官僚。年月を経ても官僚の体質は変わりませんね。腹の座った政治家は出てこないのでしょうか。
★参考資料
●安田武ほか「ドキュメント昭和二十年八月十五日 増補版」(双柿社、昭和59年8月発行)
●芝田英昭「敗戦期の性暴力」(立教大学コミュニティ福祉研究所紀要第9号・2021年11月発行)
●伊藤一也編「大森歴史散歩」(平成26年1月発行)
●村上勝彦「進駐軍向け特殊慰安所RAA」(ちくま新書、2022年3月発行)
●ドウス昌代「マッカーサーの二つの帽子」(講談社文庫、昭和60年8月発行)