品川神社の高台にある富士山に似せた岩山
京急電鉄で品川・東京方面に向かっていると、品川駅に着く少し前、車窓の左手に、小高い岩山が目に飛び込んできます。人が岩の上を歩いていることもあります。
「なんだろう、あそこは?」と、前から気になっていて、過日、地図を頼りに自転車で見に行ってきました。
目次
「品川富士」というミニチュア富士山
東京都品川区にある品川神社。
岩山は、品川区の品川神社の境内の一角にありました。
説明板によると、あの岩山は富士山に似せた築山(つきやま)で、冨士塚というのだそうです。
地域の名をつけて「品川富士」という名称でいま紹介されているとか。
1合目から9合目まである!
”登山口”は、神社本殿に続く53段の石段を登っていくと、真ん中あたりの左手にありました。
登山口には鳥居があって、その柱の向こうにある大きな石に「登山道」と書かれていました。
狭い石段が上に伸びていて、1㍍ほど先には「一合目」と書かれた石の柱が・・・。
石段の脇には、「二合目」「三合目」と標柱が建っていて、わずか1分で山頂です。
山頂。コンクリートで足元はしっかりしています。広さは10平方メートルぐらいでしょうかね。
眼下の第一京浜国道から、15㍍ほどの高さです。
何のための岩山なんでしょう?
上の写真の左上が岩山。第一京浜国道の反対側から撮影。
京急電鉄の電車の中から見ると、子供の遊び場のように見えたこの岩山ですが、そんな軽い気持ちで造ったものではありませんでした。(説明板で知ったのですが・・・)
だれが造ったの?
造ったのは、品川区北品川の丸嘉講(まるかこう)というグループの約300人で、明治2年(1869年)のことだそうです。
富士山(標高3776㍍)に見立てて造ったミニチュアの富士山で、グループの人たちは冨士塚(ふじづか)と呼びました。
それ、どういうグループなの? 富士講って?
丸嘉講の「講」というのは、グループのこと。丸嘉講は「富士講」の1つでした。
富士講というのは、日本一高い富士山を「神の宿る場所」として信仰して、富士山に登ればいつまでも健康で幸せであり続けることができる、と信じる人の集まりです。
江戸時代には、富士登山をして浅間神社にお参りすることを目的にした富士講が、いまの東京を中心とした首都圏の庶民の間で結成されました。
冨士塚を造った理由は?
富士登山と一口に言っても、今も昔も容易じゃないです。実際に江戸から出かけて行って富士山に登るには、往復10日ぐらいの日数と体力が必要です。女人禁制で女性は入山できなかったほか、高齢者や体が不自由な人も登山できません。
そこでたやすく富士山に登ることができるようにと、冨士塚という考えが浮かんだのでしょうね。
女性も高齢者も実際に登ったと同じ御利益を・・・
富士山に見立てた冨士塚に登ることによって、実際に登った時と同じ御利益がある、という富士信仰に基づいて冨士塚は造られたようです。
7月に山開き
「品川富士(=冨士塚)」の横には、「富士浅間神社」が建っています。
毎年7月の第一日曜日に、「山開き」という神事が営まれます。
丸嘉講のメンバー、20数人らしいですが、白装束でこの富士浅間神社の神前で、「拝み(おがみ)」をします。そして裸足で冨士塚に登って、富士山の方角に向かって拝みをし、下山する、とのことです。
上の写真の狛犬の台座には、富士山の絵が彫られていました。
富士塚はなぜここに? ほかには?
品川神社にある冨士塚、品川富士は、明治2年に造られたわけですが、
もともとは現在地から東に数十メートルの位置にありました。
ところが大正11年(1922年)、昔の東海道だった道を第一京浜国道として整備する時に、現在地に移動して再建されたそうです。
現在地に移動する前は、富士山が見えたはずですが、今は木や建物で見えません。
江戸時代には今の東京23区には、冨士塚が20あったそうです。品川富士を含めていずれも、冨士塚を造る時には、ホンモノの富士山から持ってきた溶岩を積み上げるか、岩山の表面に張り付けたとのことです。
どんな人が登るの?
品川富士の山頂から見た風景。京急の電車が高架を行き来します。
品川富士のある品川神社は、境内に「一粒萬倍の泉」があって参拝すると金運がアップするという言い伝えがあるそうです。売り上げを伸ばいたい方が多く訪れるようで、来たついでに品川富士に立ち寄っているようですね。
山頂から品川の街を見渡しますと、京急電鉄の高架の向こうのビルの谷間に、東京港の吊り橋「レインボーブリッジ」がかすかに見えました。
品川富士のてっぺんに立ち、実際の富士山に登った気分になれれば、それはそれで幸せだと思います。