北穂高岳で味わう至福のひと時

標高3000㍍の北アルプスに登っていたころの写真記録、国内外の旅行、反戦平和への思いなどを備忘録として載せています。

登山ガイド・内野常次郎の碑が中日新聞上高地支局の敷地にあるわけ(2021年)

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 上高地バスターミナルから河童橋に通じる道路わきに立つ看板。

 

 

目次

 

 

 

 上高地のバスターミナルに着いた方は、観光客も登山者もほぼ全員が河童橋に向かいます。

 途中の走路左側に中日新聞」「上高地支局」「内野常次郎の碑」という案内板が立っています。

 

 この案内板には99.9%の方は気にも留めず通過しますが、好奇心が人一倍旺盛な私が、通るたびに気になったのは、

①地元・長野県の「信濃毎日新聞」ではなくて、なんで名古屋が本拠地の「中日」なんだろう

②「上高地の常さん」と親しまれた人の碑がなんでここにあるんだろう

 

――ということ。しつこく調べてみました。

 

 

 

国民新聞」がここを基地にして新聞を配っていた

 日本山岳会の会報「山岳」がヒントをくれました。

 「山岳」第89巻(1994年12月発行)に織内信彦副会長が次のように書いています。

 

 「初めて私が徳本峠を越えて上高地に入ったのは昭和2年(1927年)7月。小梨平には、徳富蘇峰主筆の『国民新聞』が(現在の中日新聞上高地支局の位置に)上高地支局という天幕(=テント)を設けていました。

 朝日(新聞)や東日(=毎日新聞の前身)などはいなかったようです。上高地のニュースはもっぱら国民新聞が独占していたように思う。支局に詰めていた楠瀬正澄、山本照、小秋元隆邦というような記者たちと親しくなりました。

 国民新聞ガリ版(※)で、上高地ニュースを発行し、キャンプ(=テント泊)や旅館に無料で配っていましたね」(要旨)

 

 ※ガリ版とは=表面にロウを塗った薄い原紙に「鉄筆」で文字を書くと、小さな穴が開き、インクの付いたローラーを転がすと、穴からインクが押し出されて紙に転写される、という原始的な印刷技術です。「鉄筆」で文字を書く時にガリガリ音がしたので、ガリ版と言われました。

 1970年前後の学生運動が華やかなりしころ、各セクトが大学キャンパスで配ったアジビラガリ版刷りで、なつかしい「言葉」です。

 

 

 

 

国民新聞」の発行を「新愛知」が受け継いだ

 国民新聞関東大震災のあと、経営が徐々に苦しくなって、昭和7年(1932年)7月に、「新愛知」という名古屋の新聞社に経営を譲る話を持ち込んだのです。この「新愛知」は現在の「中日新聞」の前身というわけです。

 

 時を同じくして、「新愛知」松本支局は上高地にテント張りの臨時通信部を開設して登山者の動きや遭難の報道を始めました。

 「新愛知」が「国民新聞」の経営を正式に継承したのは昭和8年(1933年)4月30日でした。

 「新愛知」は昭和9年(1934年)7月10日、❝恒久的な取材基地❞として現在地に上高地支局を完成させて今日に至っています。

 

 

 上高地一帯は、穂高神社奥宮を除くほぼ全域が国有地中日新聞上高地支局が完成した直後の昭和9年12月には、中部山岳国立公園の特別保護区に指定されて、現状変更は原則としてできなくなりました。このために、他の新聞社は上高地で支局の建物の建設が難しくなったのです。

 

 

 

 

「新愛知」が「名古屋新聞」と合併し、「中日新聞」に

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 「新愛知」はその後、太平洋戦争中の昭和17年(1942年)、競合相手だった「名古屋新聞」と合併して、「中部日本新聞」(現在の「中日新聞」)になりました。

 

 

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 中日新聞支局のある場所も国有地で、環境省から契約更新を繰り返しながら借りている状況です。

 

 

 

 

 

 

内野常次郎は登山ガイド

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 「常さん」こと内野常次郎。(「目で見る日本登山史」山と渓谷社から引用)

 

 

 

旅館の裏の小屋住まい

 「上高地の常さん」と山関係者から親しまれていた常さんは、岐阜県上宝村(現在高山市)出身。上高地にいくつかある旅館の裏の小屋住まいを転々とし、釣ったイワナを旅館に売ったり、山案内をして暮らしを立てていました。

 上高地の名物男です。

 

 

 

 

「おカミさん」と秩父宮妃殿下を呼んだ常さん

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 「常さん」(中央の男性)。 左は、松濤明。右は、有本克己。

 (『新編・風雪のビヴァーク」松濤明』から引用)

 

 

 

 昭和9年8月、山が好きで❝山の宮さま❞とと呼ばれていた秩父宮さまが、ご夫妻で上高地帝国ホテルに滞在中に、常さんが明神池でのイワナ釣りに妃殿下をご案内したことがありました。

 その時、常さんが妃殿下を「おカミさん」と呼びかけたことから、取り巻きや同行の記者連中の背筋が凍ったというエピソードがあります。でも、常さんはキョトンとしていたとか。

 あとで常さんに、仲間がどうしてあんな呼びかけをしたのかと聞くと、「おカミさんしか、いいようがないのう」と、常さんはいささかしおれていたそうです。

 常さんにとっては、妃殿下も奥方もなく、女性はみんな「おカミさん」なのです。

 このことが翌々日の新聞各紙に載り、偶然にも常さんの存在を天下に知らせることになりました。

 

 

 

酒好き

 大酒のみで欲がなく、お人好しの常さんは、小屋を訪れた登山者はだれでも受け入れる自然人。常さんを慕う慶応大山岳部員らが酒を手土産に登ってくると、常さんは収入源のイワナを惜しげもなく焼いてすすめ、世話をしました。

 学生たちは下山の際に、余ったコメや缶詰を小屋に置いていきましたが、常さんはお返しに、イワナやウサギの肉を出してしまうのです。あちこちの旅館から借金をつくって心証を悪くし、ついには面倒を見てくれる旅館がなくなったのです。追い出されました。

 

 

 

 

中日新聞と常さんの関係

 住むところがなくなった常さんを助けたのは、山案内人仲間で、上高地帝国ホテルの管理人をしている木村殖(しげる)さんでした。

 

 木村さんの自伝「上高地の大将」によりますと、昭和10年秋ごろ、経営主体が「新愛知」に移っていた国民新聞」の小屋の❝平井さん❞に、「いま常さんはどこにも泊まるところがなくて困っている。新聞社の敷地の一部を貸してほしい」と事情を説明して頼み込んだそうです。

 

 平井さんから承諾書をもらうと、木村さんは別の場所の小屋を取り壊した廃材を使い、大勢の大工の協力でたった1日で小屋を建て、常さんがそこに住み込みました。

 

 ところが、これを知った松本営林署の❝高岡さん❞がやってきて、「国有地なのに、いったい誰に断って小屋など建てたのだ」と文句を言いましたが、3年ほど常さんが謝りとおしたら、ことは収まったようです。そんなのんびりした時代だったようです。

 

 

 

常さんの碑

 常さんはその後、上高地で昭和24年(1947年)秋に脳梗塞で倒れ、岐阜の実家で66歳で亡くなるまで、中日新聞上高地支局の敷地内の小屋に住んでいました。

 

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 常さんの小屋が建っていた跡に、常さんの親戚が昭和42年(1967年)10月、顕彰碑を建てました。

 

 

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 碑の裏面には、常さんの略歴。

 

 

 

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 顕彰碑の碑文は登山家の槇有恒が書き、10月29日の除幕式では今西錦司が100人以上の参列者を前にあいさつしました。

 

 石碑の下には、常さんの遺髪だけが埋められています。

 石碑は、奥穂高岳の山頂に対峙するように建っています。

 

 

 

(参考)

上高地物語」横山篤美  信州の旅社 昭和56年発行

上高地の大将」木村殖  実業之日本社 昭和44年発行