北穂高岳で味わう至福のひと時

標高3000㍍の北アルプスに登っていたころの写真記録、国内外の旅行、反戦平和への思いなどを備忘録として載せています。

【本の感想】泉康子著「天災か人災か?松本雪崩裁判の真実」

 この本は、30年以上も前に長野県で起きた雪崩による高校教諭の遭難死亡事故を扱ったノンフィクション作品です。登場人物はすべて実名。

 

 事故が起きた時やその後の裁判も全国ニュースでは取り上げられず、ローカルニュース扱いで終わったために、話を知る人は少ない。

 そのローカルニュースをもう一度見つめ、「雪崩の発生メカニズム」にスポットを当てたのがこの本です。

 

 お勧めしたい理由は2つ。1つは、なだれは「自然災害」だとは必ずしも言えず、「雪崩」を新鮮な視点で学ぶことができるということ。

 もう1つは、ノンフィクションの読み物で、読者の胸に響くものがあります。本の主人公は、子どもが14歳と10歳の時に夫が病死したため、女手一つで2人を育て、その長男(24歳)を突然の雪崩で失った母親です。親としての「悔しさ」と「怒り」が伝わってきます。

 

目次

 

 

 

本の内容

 雪崩事故を報じた地元紙「信濃毎日新聞」1989年3月19日付朝刊

 

 

 雪崩による遭難事故は1989年3月北アルプス五竜岳の、遠見尾根の支尾根の斜面で発生しました。

 長野県山岳総合センター(=県教育委員会の機関)が開催した高校山岳部生徒と顧問の教諭計30人を対象にした「研修会」でした。

 死亡したのは、県立松本蟻ケ崎高校の酒井耕教諭(24歳)。翌月の新年度から山岳部顧問にならないかと勧められて、その気になって参加していました。

 

 県山岳総合センターから後日届いた遭難事故報告書には、「雪崩は自然災害で不可抗力」「雪崩は斜面に積雪があれば、どこでも発生する可能性がある」と書かれていて、「なぜ事故が起きたのですか」という母の疑問に答えるものではありませんでした。

 

 県の対応を不誠実と見た母と弁護士は、国家賠償法に基づいて損害賠償を求める訴訟に踏み切ることを決断しました。

 原告は母親、被告は長野県で、県職員が注意義務違反という過失によって原告の息子を死に追いやり、原告に損害を与えた、という主張です。

 

 訴訟の過程で母親は、日本勤労者山岳連盟(略称;ろうさん)の雪崩研究専門家、中山建生(たつお)氏を知り、訴訟への協力を求めました。

 

 1995年11月の長野地裁松本支部の判決は、雪崩を人災と判断し、県を断罪しました。

 判決は「雪崩が発生した地点の斜度は40度前後であり、初心者が多人数で一度に狭い積雪斜面に入り、ワカンジキによる登攀訓練を行った場合、雪面への刺激によって本件斜面上部に表層雪崩が発生する危険性があったというべきである」と指摘。そのうえで、「担当講師には雪崩を回避するための注意義務が課せられているにもかかわらず、事前の十分な現地調査を怠った結果、雪崩発生の危険性についての判断を誤り、雪上歩行訓練を行ったものであり、この点に過失があった」と認定しました。

 中山氏の法廷での証言や陳述書の根幹部分を採用した判決でした。

     ◇     ◇     ◇

 

(付記1)この本を読んだきっかけ

 この本を手にしたきっかけは、「泉康子」という名前をたまたま新聞の出版広告欄で目にしたからでした。

泉さん(1937年生まれ)の著書「いまだ下山せず!」(宝島文庫)――これは厳冬期の槍ヶ岳を目指したまま下山しない山岳会の仲間3人の捜索記録ですが――を以前読んでいて、その筆力に感服して名前を憶えていたんです。

 

 今回のノンフィクション作品も、証人尋問調書のコピーなど訴訟記録を裁判所から取り寄せて読み込むと同時に、雪崩事故の関係者から取材をしたようです。

 

 

(付記2)中山建生氏が雪崩教育に熱心な背景

 中山氏は1987年以降毎年、登山者相手に「雪崩事故を防ぐための講習会」を開き、自ら講師をしている方です。

 私も2003年1月、雪山初心者として日本勤労者山岳連盟関東ブロック協議会が谷川岳で開いた雪崩講習会に参加。中山氏らの指導で埋没体験、ビーコン操作、ゾンデ棒の感触体験など実践的な学習をしました。

 埋没体験では、実際に身体を雪の中に埋めてもらいましたが、身動きできません。雪はすぐに締まって固まってしまうんですね。自力脱出できないことを知りました。

 

 中山氏が雪崩教育に熱心なのは、仲間を雪崩で失った悲しみからです。

 中山氏が神奈川県勤労者山岳連盟の理事長だった時のことです。1984年12月31日、加盟している山岳会のメンバー6人が、鹿島槍ヶ岳・東尾根の第一岩峰上部で雪洞(=雪の横穴)を掘り、ビバーク(=緊急の野宿)していたところ、夜にその上から全層雪崩が発生して三ノ沢に流されました。(死因は全員、頸椎損傷で即死)

 写真は、鹿島槍・東尾根の第一岩峰(右)と第二岩峰(左)の台形状斜面。雪崩のこん跡が分かる。(当該山岳会の遭難報告書から引用)

 

 この時、中山氏は1985年1月5日に現地入りして捜索の指揮をとりました。しかし、捜索は難航し、1月14日にいったん中止することを決めました。

 

 1月14日、大谷原(おおたんばら)登山口に急きょ設けられた雪の祭壇

 

 その時の思いを、中山氏は次のように書いています。

「捜索の『打ち切り』という現実は、重くて切ないものでした。ご家族に『やるだけのことはしました。いまは多量の雪が降り、捜索に入っている仲間に危険が迫っています。捜索を中止して仲間を下山させることにしました。申し訳ありません』と言い、私も涙とおえつで言葉が続かなくなりました。

 ご家族への気持ち、捜索に入った仲間への気持ち、鹿島での10日間の捜索活動を経て、大谷原での仮のお別れの時、こんな気持ちはもうしたくない、みんなにもさせたくない、と強い決意を持ちました。これが今日まで続いた雪崩講習会への私の気持ちです」

(2002年度全国・地方雪崩講習用テキスト;日本勤労者山岳連盟から引用)

 

 中山氏は、この6人の雪崩遭難の原因について、同じテキストでこう書いています。

 

「雪崩に関する危険判断ができなかった。(雪崩についての)知識と経験を欠いた。ビバークサイト(=緊急露営する場所)の選定の誤り、別パーティーとの合流に遅れ、焦りを持っていた」「雪洞構築、ラッセル(=雪をかき分けて進むこと)、休憩など刺激と荷重を加えている。連続した刺激による亀裂の拡大・連結が積雪の内部に生じたものとみられる」

 

 当時は、雪崩が発生する仕組みをほとんどの人が知らなかったのですね。まあ、いまもそうかもしれません。